叶うこと。諦めること。

私は、望みが叶うことは、何かを諦めるに等しいと前から思っている。

例えば、出世したいと思う誰かは、自分の自由な時間を、少なくともある一定期間は諦め削るだろう。
家庭と仕事を両立したいと思う母親は、小さな我が子の成長を眺め続ける自分が得られたかもしれない喜びを、他人に任せなければならないこともあるだろう。
子供を我が手で育てたいと願う母親は、子供から離れたひとりの時間を諦めなければならないこともあるだろう。
有名人でいたい人は、プライバシーを諦める必要があることもあるだろう。


何も諦めずに、手に入る望みはないと思っている。
それが事実または真実かどうかは知らない。

私は、望みを叶えることは諦めないが、ここは非常にしぶといが、そのためには、多くを諦める必要がある場合もあると思っている。
それでも手に入れたいもの、それが、私にとっての夢や望みだ。
他を諦めきれない時は、そこまで自分のその望みは強くないと判断している。
諦めない何かの方に、何か自分が気づいていない望みがあるのだろうと、そちらに隠れている望みを探す。

望みは、これ!でなければ幸せになれないということでもない。
望みを叶えることで手に入れたいものが手に入るなら、望みが叶うことはまた、単なる手段だ。
もし、諦めきれない何かが、その手に入れたいものにつながるなら、今ある望みを、気がついていない他の望みに変えればいい。



さて。

強くありたいと願う時、弱くいたいという気持ちは諦める必要があるだろう。

昨日、私に起きたことはまさにそれだ。
私が、本当に怖さに弱かったのなら、あんなに簡単に怖いは克服できない。
35年くらい、怖かったのだから。

また、強くなりたいという気持ちも諦める必要があったのだろう。

強くある、と、強くなる、は別の話だ。
私は、昨日、急に歯医者の治療中に強くなったわけではなく、強くあっただけだ。

強くありたい、と望んだ時、恐れに弱くいるという状態を諦めたのだろう。
そして、自分は十分強いと受け入れたのだろう。

少なくとも、歯医者の恐怖を抱えて平然としていられるくらいには。
過去は違ったのかもしれないが、昨日の時点ではそうだということを。


歯医者の恐怖は、人生最大の恐怖。

わずか数十分で、そこへの対処が見つかった。
これまでどうにもならなかったことが、強い気持ち!という言葉だけで解決した。

望む力の大きいこと。


これ、もう少し、何か拾えそうなネタだな。。。