祝うという才能

才能について考える時、私は刺繍を思い出す。
壊滅的に才能がないもの。
習ってもそれが人生に全く活きなかったもの。
それは縫い物などの細やかな手仕事。

じっとできない私に、親が与えた最初の習いごとは、刺繍だった。
キャラには全くないが、私は刺繍教室に通う女の子だった。
近所に先生がいたのだ。

しかし、全く、刺繍は私の身につかず、私の家庭科の縫い物の宿題は、8割、母の手による作品となった。
親も、娘の縫い物の才能については諦めていたのだろう。自分のことは自分でやれといういつものフレーズは、縫い物については登場しなかった。

宿題を渡すと「下手くそに縫うのは難しいのよ。」と母はよくぶつぶつ言っていた。


私の母は、マクラメやレース編み、刺繍、洋裁、和裁と言った手仕事が得意だった。
小さい頃は、母が縫った洋服を時々着たし、私と妹が成人式に着た振袖は、母の手で縫われたものだった。

反物は私が選んだ。
青いの辻ヶ花の絞りの着物だった。
「派手すぎない?」と母は言った。

両親は、私と妹に一枚ずつ着物を用意するつもりだったのだが、私が選んだその反物は、母の予算を激しくオーバーした。

家族で京都に反物を選びに行った時、「これでなければ着ない」と18才の私(今ならそんなことは言わない)は言い張り、一緒についてきていた父が「また後からぶつぶつうるさいのもめんどくさいから、もうこれを買ってやれ。」と言い、妹が、「私もこれでいいよ。」と言ってくれたのでそれになった。

妹は、体が大きかったし、また私は小さかったので、2つ違いの姉妹はいつでもほとんど同じ大きさだった。
それで、妹は、私のお下がりはほとんど着ていないはずだが、成人式の着物は、私のお下がりということになった。
妹にもその着物はよく似合っていた。


母はそのあと、長い時間をかけて、振袖を縫っていた。
絞りは難しかったらしい。

私は、成人式以外も、なんどかその着物を着た。
着付けも母だ。
母は、着付けは覚えなくていいと言った。
「あなたは着付けを覚えたら、外で脱いでまた着てしれっと帰ってくる。」と、彼女は年頃の娘を全く信頼していなかった。


さて。
姪っ子が、私と妹が七五三に着た着物を着ていた。もしかしたら、この成人式の着物も、姪っ子も着るかもしれない。

私は持たない母の才能は、成長を祝う時に使われる。

これは、縫うという才能ではなく、祝うという才能だなと思った。


それなら、私も持っている。

縫う才能は遺伝しなかったが、祝う才能は遺伝したと少し思った。