ピンクのランドセル*希望

今日、家にピンクのランドセルが届いた。
最近のランドセルの軽さにびっくりした。
ランドセルは、我が家で使われるものではない。
少し離れた国に住む女の子の背中に背負われるものだ。
そのプロジェクトが集めているのは、小学校を卒業して必要なくなったランドセルだったが、まあ、新品でも差し支えはなかろう。


私は、届いたランドセルのその作りを観察しながら、誰かが抱いた願いは時を超えて発展していくなあ、とふと思った。
思えば、私の目に止まったり、浮かんだりするチャリティは教育関係のものが多いことに気がついたからだ。

私は、食料事情や医療事情については、お金だけで話を済ませようとする。
寄付しておしまい。
それがどうなったか先に興味も持たない。
ところが、今回のランドセルのように、話が教育に及ぶと私の体が動く。
先に興味も抱く。
お金だけでなく、自分もなんらかの小さな行動でそこに参加しようとする。

黄色いバスもそうだ。
(黄色いバスは、その国が政情不安な感じになってきているので、少し先に延びるのではないかと思う)


これらのこと。
これもまた、「学校に行きたい」「勉強したい」と祖母が強く願った願いとつながっているのではないだろうか?と、ふと思った。

私自身の、学校に行きたい、勉強したいは、十分に満たされた後で、私にはそこに対する渇望感はない。
私にあるのは、満足だけだ。

祖母の願いそのものは満たされなかったが、ひ孫がおそらく完全に願いを達成するだろうし、それは十分可能だから、家族のラインとしての願いも完結だ。

家族のラインで、達成された後、願いは?

それらがそのようである時、次に起きることは?


その答えが、ピンクのランドセルなのではないかと思った。

私は不思議だった。
そんなに善意の人ではない自分の目が、教育の不平等についてはなんとかならないものかと感じることが。

これは、刷り込みだと思った。
願いの刷り込み。


祖母から聞いた祖母の叶わなかった願い、母から聞いた母の叶わなかった願い、父から聞いた父の叶わなかった願い、そして、自分は知っている叶う喜び、自分も知る叶わなかった願い、それらの願いに私は反応するのだろうと思った。


祖母の願いは、身内に働き、そして、今、外に向かおうとしているのではないか?

叶わなかった願い、には、叶った願いと同じくらいの力があるのではないか?
いや、むしろ、叶わなかった願いの方がパワフルなのではないか?


人は、叶った願いはすぐ忘れるが、叶わなかった願いについてはしつこいくらいに思い返す。
語る。



叶うかどうかが問題なのではなく、願うかどうかに重要なことが隠れているのかもと思い、それから、あ、と思った。

希望の正体は、叶っていない願いだ、と気がついたからだった。

ああ、願いを抱け、それが希望か、、、と思ったのだった。
それから、ああ、古い古い本にも、この世で最も大事なもののひとつに、希望が入っていたな、と思った。


その思考は、ピンクのランドセルから、私へのお返しみたいだった。