父の強さ*1月17日

ある年の1月17日。
私は公衆電話の列に、父の名刺を持って並んでいた。
父の会社に電話をかけるためだった。
電話は繋がったり繋がらなかったりしたので、列は随分長かった。

その頃、九州に単身赴任していた父は、その朝、寝坊して、テレビを見ずに会社に行った。
会社の人達が「会社に来ていて大丈夫なんですか!?」と、地震があったことを父に告げた。

やがて私と電話が繋がると、父は、明るい声で「おう、生きとったか。」と笑った。
「うん、みんな大丈夫。」と私が答えると、父は言った。
「お母さんを頼むな。」
私は、うん、と言った。


次の日、動き始めた飛行機に乗って、父は帰ってきた。
空港から家まで、水の入ったペットボトルを何本か持って歩いて。

帰ってくるなり、父は言った。
「伊丹駅でな、駅は二階が落ちて潰れてたけどな、駅前のパチンコやは営業しとったわ。
中覗いてみたらな、3人くらいパチンコ打っとったから、ああ、これは大丈夫やなと思った。」
そして、大笑いをした。

ぐちゃぐちゃの家の中についてコメントするでもなく、大丈夫かというでもなく、父は笑った。

それを聞いて、私と妹はケラケラ笑った。
実際、すでに家の中が息苦しかったのだ。
父が帰ってきて、救われた気分になった。

私はひそかに、お父さん、パチンコしてから帰ってきたなと思ったが、それは口にはしなかった。
本当のことは口にしてはいけない。
私は、「この場合、それを言えば大変なことになる」という分別はつく年になっていた。
何しろ、大震災の被災地の端っこに我が家は位置しており、余震で、母はすっかり恐怖につかまっていたし、普段は抱っこがきらいな猫も、一日中、妹に抱かれたままだった。


次の日、父は会社に行った。
実家の一駅隣にも会社の製作所があり、父はもともと、そこへ通っていた。
夕方、父は、牛丼を買って帰ってきた。
「そろそろ、あったかいものが食べたいやろ。」
そして笑った。

当たり前に食べてきた、温かいものがごちそうだということを、私はこの時知った。
牛丼やさんのラベルの住所が、微妙な位置だったが、口にはしなかった。
気づいても口にしてはいけない。


そして一週間後、父は九州へ帰っていった。
父は、家にいる間中、いつもと全く変わらない飄々とした態度でよく笑った。
母は時折、「お父さんはあの恐怖を味合わなかったから。」とぶつぶつ言った。

しかし、私は思った。
おそらく父は、同じ体験をしたとしても、きっと同じ態度だと。


私が父が父親としては満点だったと思う要素は、この一週間につまっている。
夫としてはマイナス9500点と思う要素もこの一週間につまっている。

かくも矛盾した存在が、私の父だ。
どの人間もそうであるように。