走れメロス

これは、過去に一度書いたことがある、ある友人の話である。
私と彼女の付き合いは、10年を超える。
前回は、ちょっといい話的に寄り添うスタイルで書いたが、どう考えてもこれは笑い話だという私の主張が、先日、友人に認められたため、もう一度書く。

かの有名な『走れメロス』という友情を描いた名作により、長い間、友達がいなかった人の話。



長い間、彼女の口癖は、「私には友達はひとりもいないし、友達なんて必要ない。」だった。

その度に、私は、へえ、と言った。
私の友人の定義では、彼女は友達なのだが、本人が友達ではないというのだからそうなのだろう。

見ている限り、彼女は、割と社交的な人で、友人も多そうだった。
しかし、彼女はいつでも言った。
「私には子供の頃から、友達はひとりもいない。

へえ。
まあ、相手がどう思おうが付き合いは変わるものでもないので、私たちは私の定義では友人づきあいと呼べる関係を続けた。

お友達よね!と友達であることをしつこく確認する必要がある薄っぺらい利害関係も世の中には五万と存在することではあるし、友人関係と互いが思うかどうかは、私には、あまり関係なかった。
彼女は信頼のおける人で、話していると楽しい。
自分が友達だと思うかどうかが大事なわけで、私にはそれ以上は必要なかった。

ちなみに、ある別の友人は、「お」友達という「お」のつく友達が友達だった試しはないと言い切っていた。


さて、ある時、その友達がひとりもいない彼女と私はお茶を飲んでいた。

彼女は言った。
「最近、小学生の頃の同級生から連絡があってね。どうも、私と友達だったみたいなの。そういえばそんな気もするわ。」


私は鬼の首を取った!と思った。
今だ!

私は言った。
「ということは、あなたがいつも言う、私には友達がひとりもいないは嘘ね?』

彼女は言った。
「そういうことになるわね。」

ちなみにね、と私は言った。
ちなみにね、私はもう数年、あなたとは友達よ。
だけど、あなたが友達はひとりもいないと言うから、それなら友達ではないのかもねえと。
まあ少し寂しい気持ちはしたけれど、そうしておいたけど。


彼女は言った。
「あら!」


そして、私は質問した。
「あなたにとって、友達とは何?」

彼女は言った。
「死にかけた時に自分の命を差し出すくらいの勢いで助けてくれる人。」


なんじゃ、そりゃ。


私は淡々と、しかし、にやにやしながら言った。
「そのためには、まず、死にかけないといけないね。」


そうしないと誰が友達かが確認できない。
しかし、彼女は死にかけたことがないので、友達はいない。

なんてむちゃくちゃな理屈。
私は、彼女のことはクレバーな人だと思ってきたが、もしかすると彼女はとんでもないあほじゃなかろうか、と思った。
いや、あほだろう。

本人は、いたく感動的な様子だったが。

そして彼女は一瞬で、友達の多い人になった。

思い込みから解放された人によくあるように、また、彼女の世界も一瞬で変わった。
現実は何一つ変わらない。
ただ、現実と頭の中のズレが、事実確認によって修正されただけ。

(思い込みからの解放は、事実確認で簡単にできることが多い。ただし、他者と一緒にやる必要がある。思い込んでいる人がひとりで客観的事実を確認するのは、割と難しい。)


それから少し日にちが経った後、また彼女と話した。
彼女は言った。

「走れメロスだと思う。子供の頃、友人関係に悩んでいた。その頃、走れメロスの中にある友情に憧れた、そしてそれが、私の友情の概念を作った。」


私は大爆笑。

友人も「あほすぎる。」と大爆笑。

走れメロス。
あの教科書にすら登場した名作。

まさか、太宰治も、友情を描いたものがたりが、ある少女から友達を失わせるとは思いもよらなかったことだろう。
なんて皮肉。

太宰治もびっくりに違いない。


そして、私と彼女は、友人になった。
私が、死にかけた彼女を助けたことはまだない。