夫の母との会話

 二人の祖父、二人の祖母、合わせて四人の語る戦争の話は、それぞれ違った。

この世界の片隅に、だ。

人数分だけ、戦争体験はある。


彼らは、10-20歳の多感な時期にそれを経験したから、語られるそれは、さまざまな色で色鮮やかだった。


いくつで体験するかも、経験の記憶には違いを生む。



今、私は、それを強く感じる時がある。

話題は、病気だ。

年齢により、起きることに違いがあるらしい流行病。



ある年齢から上の人には、明らかに死を感じさせている。

死生観や、死にたいする恐怖がテーマのように見える。

ある年齢の人達には、経済や生活がテーマ。

ある年齢の人たちには、自由がテーマ。



個人個人に違いはもちろんあるけれど、年代によって、テーマが分かれているような感じを受ける。

体験している恐怖や不安が異なる感じがする。


気をつけることも、年代によって変わってくるだろう。


かからないことに気を配る必要がある年代もあれば、主にうつさないことに気を配る必要がある年代もある。



私は、主に、うつさないことに気を配る必要がある年代に属する。

私の周りには、かからないことに気を配る必要がある年代の人が数人いる。


それで、それらの人たちの個々の死生観が透けて見える。

死ぬことと、生きることは同じだなと、よく感じる。



昨日、夫の母と話した。

お盆のお墓参りは、私が、代表して行ってきましょうと、私は言った。

彼女は、すっかり怯えていて、この数ヶ月で老人になった。


私は夫の母に話した。

「目の前には、平和な日常がありませんか?

もう、テレビも新聞も見ない方がいいです。

毎日毎日、何人が感染しましたという数字を見ることが、怖いを増長しています。

もう少し気をつけた方がいい人たちは、テレビも新聞も見ません。

ワイドショーに至っては、その人たちは、放映されている時間に家にいませんから、全く意味がありません。

恐怖を軽くする必要がある年代の人たちが見て怖がっているだけです。


昨日、日本では、おそらく、3000人くらいの方が亡くなっています。

毎日毎日、それくらいの人が平均して亡くなっています。

病気にかかる人数は、もっと多いでしょう。

もしも、これを毎日報道したとしたら、私たちは、毎日、死の恐怖を感じながら生き続けることになります。

気が狂う人がたくさん登場します。

だから、報道はしませんよね?


でも、毎日毎日、人は何千人も亡くなっています。

仕事を失う人もいつでもいます。

差別されている人もいつでもいます。

見えていないだけです。


恐怖が強いなら、知らなくていいこともあるのではないかと、私は思います。」


夫の母は、ああ、と言った。

私は、それから、「桃を送ったので、食べてくださいね」と言った。