罪深さ
クリスチャン業界では、人は罪深い。
しつこいくらいにこれを言う。
私は、それを聞くたび、何を当たり前のことを毎度思う。
はっきり言って、そのパートは、何の驚きもなく退屈極まりないパートだ。
自分を善人だと思ったことは一度もないし、罪なぞ山のようにある。
褒められたものではない。
なにしろ、6才の時点で、マリアさまに、許したまえと言うしかなくなった人生だ。
しかし、善き人でいたいと思ったこともない。
私は、絶対に無理なことは望まない。
誰でもそうじゃないの?と私は思ったが、Sさんは「そうじゃない」と言った。
私は特殊だと、Sさんは言った。
Sさん自身も、三十年以上前、クリスチャンになった後、ああなんと自分は罪深いと何度も思ったのだそうだ。
私は、不思議な気持ちで話を聞いていた。
けどさ、許してくれるって書いてあるよ?
だから、ありがとうで心軽やかになっていいんじゃないかと思うんだけど。
何しろ、罪深いと言う話は、ズドンと空気が重くなる。
ポイントは、神さまは、それを許しますよというところだと私は思うのだが、まず罪深さを認識せねばならないらしい。
そして、それは難しいことなのらしい。
みなは、罪の話のとき、実に苦しそうな表情を浮かべる。
私も顔をしかめているが、それは退屈だからである。
当たり前のことをわざわざありがたそうに語る意味がわからんと、私は、やはり毎回思う。