知恵の限り


同じ情報を与えられた時に、人は同じようには考えない。

同じような反応もしない。

多様性というやつである。


そりゃ、当たり前のことなのだけれど、普段、多くの人が当事者として同じ情報を受け取ることは少ない。

生きている環境が違うから。



この数ヶ月、それが世界的に起きていて、私は、人は実に多様だ!多様なのは本当だ!興味深い!と、少し状況を楽しんでいる。


(私個人は、もう、起きていることを受け入れて、それは在るという前提で、人生を考えはじめている。なくなったらラッキー、けれど、なくならなくても、その中で人生をやり遂げればいいだけ。)



そして、しつこいようだが、戦争でなくて本当によかったと感じている。


理由のひとつが、この情報だ。

理性的で、感情でなくロジックで物を考えようとする人々は、戦争の時は排除される。

手っ取り早く言えば、捕まって殺される。


どう考えても、一般市民は、戦争では、勝とうが負けようが得るものがないし、国が勝てば国民がみな豊かになるというのは嘘だということは、勝ち続けている国を見ればよくわかる。

2000万人もが健康保険に入れず、医療をまともに受けられない。

負けた国では、みな、平等に医療が受けられているのに。



それを防ぐためのアプリで、国民のプライバシーを保護しようとしたのも、負けた国2つだ。

負けた国の方が、自由を保とうとしている。


プロパガンダというものは、勝てば「自分の」手に入るものがあるかのような幻を見せる。


プロパガンダは、必ず、感情に訴える情報の出し方をする。



今、情報は、理性と知恵に訴える方向へと舵を切りはじめた媒体が割とある。


SNSかよと突っ込みたい媒体も、数多くあるが、そうではない媒体もたくさんある。



私は、新しい時代、とは、感情に振り回されるところから、一歩歩みを進める時代なんじゃないかと感じている。

感情を満たすだけのところから、一歩歩み出て、理性と知恵の力が世界を動かしていく時代。



このまま、冷戦が繰り広げられることを、私は祈る。

知恵と経済のみで戦って欲しいと思う。


そしてそこに、日本は、知恵の限りを尽くして、巻き込まれないことを祈る。