祖父の声

 

母方の祖父。

彼には、東京から、俳優にならないかとスカウトが来たことが、何度かあったそうだ。

孫の目から見ても、祖父の顔は非常に端正だった。

(私は全く似ていない。)

彼は素面の時は神さまのように優しく、アルコールが入ると叫び暴れた。


母が里帰りして生まれた妹だけは、祖父を全く嫌がらなかった。

妹は、母方に泊まると、いつも、酔っ払った祖父と同じ布団ですやすや眠っていた。


さて。時は1944年。


22才のまだ若い祖父はその時、ビルマの山の中にいた。


山の中を一日中歩き回り、そして、野営するという日々を、祖父は過ごした。

そして、野営地で、別の部隊に所属していた2つ年上の祖父の兄と二回一緒になった。


24才の祖父の兄は結婚していた。


2人は、夜、語りあった。

「生き残った方が、家を守ろう。どちらか、必ず、生きて帰ろう。」


その後、祖父は、肺を病み、1945年のはじめに除隊になって日本に帰ってきた。

祖父の兄は、帰ってこなかった。


祖父は、それ以外、一切、何を見たか、何が起きたかを語らなかった。

私は、小学校の宿題で読んだ「ビルマの竪琴」という本で、少しだけ、祖父が見たひどいことを想像した。



祖父は、日本に帰った後、アルコール中毒になった。

酔った祖父は、現れる誰かと話し続けていた。



ある夏休み、祖父は、遊びに来ている上は小学生から下は幼稚園までの孫達を、自分の前に並んで正座で座らせた。

そして、「戦争はいけん。絶対にいけん」と繰り返した。


私は、祖父の手元のお酒を水に変えたらバレるだろうか?と考えながら、話を聞いていた。


私はいとこの中で最年長で、その話は聞き飽きていた。

夏が来ると、祖父は毎年言うのだから。

祖父の話は長く、廊下の障子が少し開いて、抜けてこいと叔母が手招きした。


それで、「トイレ」と私は立ち上がった。

いとこ達はまたひとり、ひとり、と抜け出した。


最後にひとり残ったいとこが中々出てこないので、そおっとみんなで覗くと、いとこのKちゃんは泣いていた。


「なんで泣いてるん」と、みんなは笑った。


やがて、Kちゃんは出てきて言った。

「戦争はいけん。」


祖父が障子の向こうで、「酒」と叫んだ。

私は、「は〜い」と言って、空の一升瓶に井戸水をいっぱいにして持っていった。


祖父は「サンキュー、サンキュー」と言って、コップに水を注いで、くいっと飲んだ。

そして、「水じゃないか」と怒鳴った。


私は、きゃははははと笑いながら逃げて、おばのところに行って言った。

「味はわかるんじゃねえ。」

そして、きゃっきゃ笑いながら、また別のおばにそれを伝えるために、離れに走った。



「戦争さえなけりゃあね」と、おば達が何度か言うのを聞いた。

祖父は、アルコール中毒にはならなかっただろうと。


祖父が死ぬ5年前、祖父は体を壊し、お酒を飲めなくなった。

ただ優しい祖父がそこにいた。


22才の一年間に経験したことが、その後、60年近い祖父の人生を変えた。


「繊細な優しい人には、戦地はあかんな」と、ある時、私は母に言った。



戦争はいけん。

絶対にいけん。


祖父の声は、8月になると、今でも聞こえる。