いろいろ

 

父と私はあるところが似ていて、ある部分の感情が弱いというか、好奇心が強いというか、それがどんな対象でも、不思議やねえと感じれば、不思議だなあ、と考えたがるところがある。

好奇心が恐怖や不安より強い。

これは遺伝的な性格だろう。


それをそのまま口に出すと、とんでもなく他人の気分を害することがあるということは、私と父は、母から教わった。

私は父からも、子供の時に、何度も注意されている。

今、考えれば、あれは、父自身もきっと同じだったのだ。


母いわく、私と父は、感情の作りが何かおかしいのだそうである。


今でも時折、母は、私と父の会話に眉をひそめている。

私の夫もたまに、なぜ、その話題をそんなにあっけらかんと興味深そうに話せるのかと、時折、私に疑問のようだ。


好奇心とは、感情ではないと、私が思うのはそんな時。

好奇心を抱いている時、感情は動かない。

なんで?が勝つ。



私が、4月に自主隔離していた時、気持ちがまったく落ち込まなかったのは、自分の新しい体調を好奇心いっぱいで観察していたからなのはあると思う。

自分の中に普通に生まれた、死ぬかもしれないという一瞬の恐怖の気分さえ、私には興味深い観察対象だったのだ。

(おかげで、私は、自分の人生の悔いは、本当に、片付いてない家の中しかないということを理解した。それから、今から自分がやりたいこと。)


今、あれはどうだったの?と聞かれると、私の答えは「楽しかったよ。なんかいっぱい友達と話せたし、みんな親切だったし」だ。

症状がひどくなかったことは大きい。



そういうわけで、私は、(おそらくは父も)、新しい状況を、好奇心を持って観察し続けている。

私の観察対象は人間、父はおそらく病気そのものと、少し違いはあるかもしれない。


私は、「同じ情報」(とはいっても、ソースはバラバラだったりするから、そもそも目にする時の情報のトーンが違うけれど)を与えられた人たちが、これほどまでに、バラバラの解釈と反応と動きをする世界に、多様性ってほんまやなと感じ続けている。


この半年、個々がした、心理的、現実的体験は、きっと全く別の話だろう。

今となっては、まるで、全く別のウイルスと向き合っているくらいの違いが生まれていることもあるかもしれない。


差別についても、私は自身でも経験してないし、周りでも、一切そんな話は聞かない。

流行りまくりの地域にいるのもあると思う。

注意してるとかしてないとか、そんなこと関係なく、感染するときは、誰でも感染すると考えている人が多い気がする。

同時に、そんなに簡単にはうつらないというように感じている人も多い気がする。

マスク警察、自粛警察は、私の周りでは見かけない。

ニュースで見て、戦中の婦人会みたいやな、怖いと思うが、現実には見たことがない。


本当に、そんなにたくさんの〇〇警察がいるのか謎だ。

精神的に追い詰められてる人たちだと思うのだけど、そこまで、恐怖で追い詰められている人数は、本当に、多いのだろうか?



ただの新しい風邪と感じはじめている人には、そう感じる根拠があり、そうじゃないと感じる人には、そう感じる根拠があり。

それは、個々の体験と解釈の違いによって生まれているわけで。


ただの風邪でも、そうじゃなくても、どちらにしても、予防は同じ。

手洗い、うがい、マスク。

風邪の予防と同じだ。


はっきりするまで、そして治療法かワクチンか、弱毒化か、なんかどうにかなるまで、今しばらく、できるだけたくさんの人が、人が集まる場所ではマスクをしといた方がよさげよね、体調悪けりゃお家にいよう、というのが、私個人の感覚だ。


取締るというか、利害は一致するのだから、できるだけ協力しあいましょ、仕方ないやんという感じ。


社会はひとりで成立しない。



さて。


この数ヶ月、不思議やねえ、と、私と父が話す度に言っていたのは、なぜ、この新しい風邪のウイルスと同じ系統のウイルスは、子供には症状が出ないんだろう?だった。

子供は免疫が強いとは言うが、子供も他の風邪はひく。

インフルエンザにもかかる。


それなのに、この新しいウイルスでは、子供は、ほとんど症状が出ない。

国によって少し違いがありそうだが。

子供に症状が出ていたら、世の中、今とは桁違いにひっくり返り、パニックを起こす親が多かったに違いないから、子供がたいしたことないのは、本当によかったけれど。

小さな子供が苦しむのは、見ているのもつらい話だ。


ともかく、不思議だねえ、と、父と私はヒソヒソ話していた。

どういうこと?

子供と大人は何が違うのだろう?


答えのないことを話すのが、好きな親子なのだ。