お子さんは?
ああ、これかあと、去年から理解し続けている話。
例えば、セッションやグラフィックの仕事、それから自分の個人的なつながりの中で生まれる新しい人間関係の中で、「お子さんは?」と聞かれることが、私はまずない。
年代、関わらずない。
結婚しているかどうかすら聞かれない。
自分のそこに興味を持つ人がいないのだと思う。
もっと別のことで、判断されている感じがする。
実の母と夫の母に至っては、結婚したとき、子供は無理に作るなと、口を揃えて言った。
様子を見ていると、本音のようだった。
彼女たちいわく、「子育てが楽しく豊かなだけのことというのは幻想で、あなたは、しなくてすむならしなくていい」ということだった。
あなたは自由に生きてなさいと、彼女たちはそう言った。
友達は、もちろん、何も言わない。
近い友達は、私が子供好きなことは知ってはいるが。
そんなわけで、私は、世の中にある「お子さんは?」プレッシャーとは、全く皆無の関わりで去年まできた。
嫌な思いもしたことがない。
だから、世の中で、たまに耳にするお子さんはプレッシャーが、よく理解できなかった。
だって、尋ねる人がいないんだもん。
去年、私は、はじめたフィールドワークのバイトで、主に高齢者の生活と関わりはじめた。
すると、おお!これが世間か!ということを、私は味わった。
その業界では、会社の人も、サービス利用者も、私に最初に必ず聞いた。
「お子さんは?」
その業界では、挨拶のように、「お子さんは?」と誰もが聞く。
お子さんがいなくても、サービススキルに差はないように思えるが、とりあえず、本当に会う人、会う人が聞く。
プライバシーの中に立ち入っていく業界だからかもしれない。
私は、特に、長らく主婦だった高齢者の女性にとっては、どうも、お子さん、は、相手を安心させる要素なようだと感じた。
やがて、ああ、そうか。
それが、彼女たちの誇れるキャリアなのだと理解した。
同時に、今日のお天気と同じで、共通の話題を模索してるんだなと思った。
なるほどね、と、私は思った。
そして、「自分の誇れるキャリア」を認めてもらいたい気持ちも、「お子さんは?」に含まれているかもしれないなと思った。
あまり、他意はないかもしれない。
私は、そこに、全く悪意を感じないからだ。
ともかく、新しい経験は新鮮だった。
だって、これまで、誰も聞かなかったんだもの。
(または、子供がいる人と思いこまれていることはある。)
そこは確認せずに、子育ての相談をされていることも多々あり、私は自分にお子さんが存在しないことは、少なくとも、仕事においては、何のマイナスも感じていない。
他はあるかもしれないが、子供がいるから生まれるマイナスもあるだろうと思われるので、どっこいどっこいだろうと思っている。
ただ、この一年で、ああ、聞かれる人はこれが嫌なんだなという気持ちも、少しだけ理解できた。
答えるのがめんどくさいから。笑
しょっちゅう聞かれたから。笑
これか!と、私は知った。
私が、めんどくさいくらいだから、これは、自分に子供がいないことを気にしている人や、不妊治療中の人は、辛かろうと思った。
今は、一般社会は、ご結婚は?お子さんは?は、他者のプライバシーなので、親しい間柄でなければ、あまり聞かないことになっていると思うけれど、高齢者が集まる業界では話は違う。
働く人も、普通に聞く。
そこは、時が止まっているようだ。
なんか昭和のまま。
離職が多い理由は、なにかと、時が昭和なままのもあるかもしれないなあと、少し思った。
かと言って、今、サービス利用者の人は、昭和が一番輝いていた人たちなわけなので、時は昭和が正解なのだろう。
働く人は、頭の中が令和なだけだ。
このギャップ。
尋ねる人に悪意はなかったり、自分の話を聞いてもらいたいだけだったり、共通の話題を探っていたりだけの場合もあるこの質問。
「お子さんは?」
ただし、のりは昭和のプライバシー感覚。
これは、なかなか難しい話ですなと、私は思った。
しばらく、時々、聴き続けられてみよう。