時間の無駄システム
ここ数ヶ月で、私に起きた最も大きな変化は、「時間の無駄システム」思考の採用だ。
きっかけは4月。
私は、4月に1度、人生2度目の「死がむっちゃ近い状態。自分のすぐ側に自分の死を感じる」体験をした。
1度目のそれは、20年以上前。
その時、死の気配は、私を人生のどん底から救済した。
そうか、いつでも死ねるのだという事実が、私を気楽にした。
自分には、最終的には、人生ギブアップという手段がある。
ならば、生きてみよう。
私は、そう思った。
これは、今に至るまで、私が人生を気楽に運営する上で、大きな影響を与えている。
ただし、人には勧めない。
私には、死の恐怖がない。
まじでない。
なぜなら、私は死んだ後に好奇心を抱いている。
途中までしか見なかったあの景色の先に。
だから成立する思考だからだ。
レアケースだろう。
臨死体験経験者特典だ。
他人は使えないので、これまで書いたこともない。
2度目の4月。
私は、自分の人生の残り時間を考えた。
私は、体が強くない。
人生100年とは思えない。
そして、同じ年のみんなは、ほとんど無症状ですむはずのことで、持病もないのに症状が出た。
ここから先、私が動ける時間はうんと減ると、私は思った。
黄色いバスは、私が今日死んでも走る。
それは必ず走ると決まっている。
だから大丈夫なのだけれど、それが走る時に、みなが心から笑うためには、私はその時、生きている必要がある。
喜びしかない事業のために、私は生きている必要がある。
私は、そう思った。
それから、あとどれくらい、私の体は使えるだろう?と考えた。
体調も悪い中、私は不思議と、むちゃくちゃ冷静で、とても平和な気持ちでそれを考えた。
そして、自分にとって時間の無駄なことには一切関わる時間がないと思った。
何が時間の無駄かは、その時はわからなかった。
そこから4ヶ月経って、最近、何度か起きたことで、私は気がついた。
平和でないこと。
喜びがないこと。
安らぎがないこと。
楽しくないこと。
創造性がないこと。
それらを生み出さないもの。
それが、自分にとっては、関わるのが時間の無駄なこと。
考えることすら、無駄なこと。
私の人生を使うに値しないこと。
それらがない場所がある時、解決しようもないそれらがある時、私は、なぜだか、そこから遠ざけられると気がついた。
なんかに。
待つしかない時は、ゴロゴロ寝とけという感じ。
寝るのは無駄じゃない。
体力温存。
私には必要だ。
思考の力はすごいと、私は、改めて思った。