思いやりとHumanity

どうもしっくりこない、ここ最近、あちこちで(主にメディアで)多用されている単語があって、それがしっくりこない自分の「人でなし度」について、考えてみたりもした。
しっくりこなかった単語は「思いやり。」

今のところ、少し日本国内の事態は落ち着いているが、外出自粛の理由として「思いやり」という単語が飛び交っていた時に、落ち着かなさは最高潮に達した。
それでなくとも、普段から、私は「思いやり」という単語に違和感を感じていたからだ。
何かを達成する手段の心理状態として「思いやり」を要求するムードを生み出すことが、いつの頃からか、この国では増えた。

それは個々に身近なところで発揮すればいい話で、世のムードとしては、もうちょっと理屈でドライにやれんか?と、私はたまに思う。
いろんな人がいるのだから。
田舎の方では、全く関係ないような状態だった地域もあり、そういうところの人は、明るく普通に暮らしていて全く問題ないような気がした。

特に東京が絡む話になった時にそう思う。
東京が絡むと「思いやり」は一気に登場回数が増える。
首都は国中を巻き込む。

幼稚園児にいうことを聞かせるわけじゃないのだから。
しんどいわ、と思う。

今回に関しては、「国に払う税金を生み出すこと(ついに満員電車は止まらなかった)、人々の生活に関わること以外の娯楽に関わる外出をしない」ことを達成させればよかったのであって、そこに、なぜ、感情的協力を要求するのかが、私には理解できなかった。

理性を使えば、アホでなければ(例えそれが無駄な行為に結果としてなったとしても、その時点ではそれが無駄だとは誰にもわからないのだから)、外出は必要最小限に抑えなければいけないことは理解でき、社会と病院が崩壊してしまえば、酷い目に合うのは共通していた利害なわけで、「他人を」思いやる前に、「自分や自分の大事な人たち」のことを考えれば、結論は一つしか無いと私には思えた。

自分が社会に所属している存在だという所属意識さえあれば、これは普通に理解できそうだと思えた。
(社会所属意識が低い人がものすごく沢山存在しているという潜在的な問題が浮かび上がったような気もするけれど、これは本人たちが悪いわけではなくて、そうなった理由があるはず。)
少なくとも、しばらくの間、未知の姿が少し見えるまでは。

もちろん、自分にとって大事じゃ無い人(この世の全員が自分にとって大事な人だという綺麗事はこの場合おいておく)は、誰かにとって大事な人なわけで、そんなことは「思いやらなくても」普通に頭で理解でき、それが理解できれば、感情を伴わさせることなく体を動かせることだと私には感じられた。

必要だったのは行動であって、心理的にはどうでも、ただ、家から必要以上に出なければ同じことが達成できる、気持ちを一つにする必要などどこにも無いと、私個人的には感じていたのだが、やたら、気持ちを一つに「思いやる」という言葉が飛び交っていて、違和感がたくさんだった。

思いやれませんよ、と、私は感じていた。
「気の毒に」は「思いやり」ではない。これは同情だ。
「医療従事者やエッセンシャルワーカーの人は大変よね。感謝しましょう」も思いやりじゃない。
私の解釈では。
それは、ただの感謝だ。

人と接する時に、思いやりは大事だというところに全く異論はない。
しかし、普段、街中で、思いやりを発揮してる人などあまり見ないのに、そこに対しての教育が行われているようには、全く見えないのに、「自分の利益(この場合は、経済が崩壊せず、医療崩壊せず、自分の健康が失われないこと)」のためになら、「思いやり」を発揮しましょうとなることに、気持ち悪さを感じていたのかもしれない。

思いやりって、自分の利益は関係ないよね?と。
でも、この言葉が登場するシチュエーションは、いつからか、きれいに自分の利益や損害がコーティングされた上に、あたかも、「それは自分のためじゃない。他人のためだ」というような感じのことが増えた気がする。
もしくは、不安にならないように、美しく恐れをコーティングする単語として。

今回は、状況が理解できず、最悪何が起きうるかの状況が想像できなかった人が初期の時点では多かったようだったから。
それなら、はっきり、「医療が崩壊したら困るのはあなただ。期間が長引けば、仕事や家計に影響が出て困るのはあなただ。学校が閉鎖したら困るのはあなたの子供だ」と言えば、もっと早く理解できた人は多かったような気がする。

大阪の人がきちんと自粛したのは、私が思うに、ここが商売の街だったことも大きかったのではないかと思う。
思いやりがメインではなかったと、私はその中にいて感じた。
それから、アレや政治をネタに、クラスターまでネタにして、人々はゲラゲラ笑っていた。

それらは、全国ネットではきっとカットされるような内容の会話だった。
死人までネタにして、人は笑っていた。
全国的に見れば「思いやり」のかけらもない会話。
政治家も「思いやれ」とは言わなかった。
ただ、「家にいろ」と言った。
ただ、行動だけに触れた。
心には介入してこなかった。
それでも、人々は、外出は自粛した。

しかしながら、ここは、人情の街でもある。
割とお節介な人は多い。
道に人が倒れていたら、誰か声はかけるだろう。
道で、マスクを持たないお年寄りにマスクを渡している人は時々、見た。
私も、いつも一枚余分にマスクを持っていた。(今も持ってる)


しばらく「思いやり」という言葉とそれが使われるシチュエーションに対しての自分のこの違和感はなんだろう?と、私は考えていて、そして、Humanityなら、違和感がないと気がついた。
Humanityの訳の中にも、思いやりは含まれる。
それ以外に、人間愛とか慈愛とか人間性とかいろんな訳があり、文脈によって意味が変わる。

個人的な感じ方の話だが、こちらは、ウエットな感じはしない。
思いやりという言葉には、ウエットな感覚を感じる。


政府や国の支配者が、感情を手段として使うのは、古式ゆかしい民衆コントロールの方法だが、人には理性と言うもう一つの要素がある。
集団で行動を一致させる必要がある時の手法として、特に何かを我慢したり耐えたりしたりしなければならない時の手段として、「思いやり」を押し付けてくるのは、そろそろ卒業してもいいくらいは、人間の頭脳は進化している気がする。


少なくとも、思いやるのは、自ら、自分であって、思いやりは、他人にそうしなさいと押し付けるもんじゃないというのだけがすごくある。
そして、まずは、自分を思いやれというのがすごくある。
(そうしないから、結局、他人を巻き込んで大変なことになる人が多いからだ。大人なら、守れる人は、自分の身は自分で守ろうとした方がいい。)


今に関して言えば、思いやるかどうかという心の中はどうでもよく、「気」をつけるかどうかもどうでもよく、熱中症にならない程度にマスクをつけて、手洗いうがいをしっかりして、ちゃんと夜お風呂に入って、人と顔を近づけて換気が悪い場所で話さなければそれでいいだけの話。

その行動のどこに、「心」が必要なのかが、私には理解できない。
感情が伴わなければ行動できないとしたら、この先、不安と恐怖が根深く広がり続ける。

手を洗う、うがいをする、マスクをつける、お風呂に入る、人と距離を保って換気をよくする。
この行動のどこにも感情は必要ない。恐怖を感じる必要はない。
何にも思いはいらない。
必要なのは、「やるかやらないか」だけだ。

トイレから出る時に、お尻をふく。
そうしなければ、病気になるから。
いちいち、そんなことを考えながら、お尻はふかない。
それと同じ話だ。


思いやりがあっても、給付金の配布が遅いせいで、潰れた会社もあることだろう。
思いやりなんていらない、必要だったのはお金、という人もたくさんいるだろう。
この人たちを、どうやって、その辺の人が思いやりで救えるのだろう?

思いやりで全てが解決できるのは、小学校のクラスの中で起きることくらいまでのものだ。
小規模の集団でなら、それは威力を発揮する。

または、寄付を集めたり、何か能動的に人を動かす時には、感情を操るのはありだと思う。
戦争とかじゃなければ。

困難への対応や、忍耐を要求する時は、ボチボチ、理性と愛を使う、他のやり方が必要だと、私は思う。
精神的に人が元気でいられるように、心の中の自由は、保証しておいた方がいいと思う。
思いやりは、長期的に広い範囲で起きることへの持続的な手段としては、精神疲労を増長するような気すらする。

「思いやり」って、幼稚園児もできる簡単な方法ではあるが、「現実的に起きること」に対して、果たして、一体どれくらいのことが思いやりという手段で解決できるか、私には謎だ。


というのが、違和感の理由というのがわかった日。
言葉そのものじゃなく、それを使うシチュエーションに違和感があった模様。