ジーザス的、怖いの対処法

昨日、zoomで礼拝に参加した。
ちょうど、礼拝で読む聖書箇所が、マタイの福音書8章23−27節だった。
この箇所は、ジーザスのキャラクターが立っていて面白いので私のお気に入りの場所だ。

(あんまり、面白いと解釈している人はいない。大体、聖書を面白がって読んでいる人自体が少ない。聖書は結構笑えるけど、ちゃんとした人が多いから。)

今日は、これを、私の解釈でご説明したいと思う。
牧師さんとかが解釈するのとは、眺めている視点が違うから、「正しい」聖書解釈ではないことを先にお伝えしておく。
一応、昨日、教会でも披露してみた。

当たり前だが、他の人とは180度くらい解釈が違った。
大体いつもそうなので、誰も気にしてない。


場面は、ジーザス一行が向こう岸に渡るために、船に乗り込むところからはじまる。

”それからイエスが舟に乗られると、弟子たちも従った。”

すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。
ところがイエスは眠っておられた。

弟子たちは近寄ってイエスを起こして、
「主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます」と言った。
イエスは言われた。
「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。」

それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。

人々は驚いて言った。
「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。”

聖書は以上。

風や湖がいうことを聞くなら、最初から、静かにしとけと言い聞かせておけばいいのにそうはしないところが、いたずらな感じがするわ、とまず私は思う。
そして、みんなが騒いでいるのはきっと聞こえていたはずなのに、呼ばれるまで起きない。
助けてくれと言うまで助けない。

そして、ジーザスが乗っているわけだから、その船は絶対に沈まない(とわかってるから、寝てたんだろうし。揺れたら船酔いするものね)のに、みんなが怖がってるから、例の「信仰の薄い者たち」とは言うけど、怖いに耐えろとは言わない。
なんと優しい。そして、期待の低さ。

何にも悪くない風と湖を怒って、怖いの元凶を絶っている。


私は、ここはジーザスと言うキャラクターの特徴がすごくよくわかる部分だと思っていて、自分の神さま付き合いもここを参考にしている。

ジーザスは……

起こる前には何もしない。先回りはしない。

「助けて欲しい」と言わなければ、助けてくれない。

弟子の精神的な成長は望んでいない。諦めていると言っていい。
目の前には見えているけど、それは起きないことに対する幻の恐怖なわけだから、幻の恐怖を克服するチャンスや、忍耐を学ぶチャンスだったと思えるが、それはさせていない。
文句言いつつ、やってくれてる。
優しい。

一瞬で解決している。対処が早い。


だから、私は、「起きて欲しいこと」を祈る。

「助けてくれ」と遠慮なく言う。

神様付き合いを通して、精神的成長をしようと思わない。
(だから、しょっちゅう「信仰の薄い者よ」と言う声が聞こえるような気はする。)

お願いしたことは、最短で起きると信じてる。
ただし、どこが最短かは私にはわからない。


そして、大体そうである。