オンパレード

早く気がつけばよかったオンパレードな毎日。

そっか、分けるだけでよかったんだな。
なんで早く気がつかなかったんだろう。

また今朝、思った。

私の喋りが最高潮に絶好調なのは、何か役割を与えられて話している時ではない。
そういう時、私は慎重になり、与えるものを選び、話す。
相手を傷つけないように、相手が必要とするものをちゃんと与えられるように。

そこにエネルギーを使うから、少し、創造性は下がる。
聞くことにもエネルギーを使う。

今、私は、聞き下手ではなく、人から話や気持ちを引っ張りだすことを長らく仕事にしてきたが、もともとは、人の話を黙って聞いているのが、ものすごく苦手だった。

学校の授業も、何が辛いって、それが辛かった。
話が面白くない先生は、最悪だった。
そして不思議なことに、話すことが商売のはずの学校の先生は、話が下手くそな割合が多かった。
全員ではなかった。
楽しませようという目線では、勉強をとらえていなかったのかもしれない。
時代もあるかもしれない。

今考えれば、自分が得意で好きなことを話しているはずなのに、不思議なことだ。
人間が好きではなさそうな人までいたから、さらに不思議だ。
人間を育てる仕事にマストなのは、それだと思うのだけど。


それで、話は自分に戻る。

明らかに、私の喋りは、友達や知り合い、それから町でたまたま会う人などと、気楽に話している時の方が面白い。
役割なく、好き勝手に話している時の方が工夫する。
多少やりすぎなくらい、話を盛る。
面白ければそれでいいからだ。
言い過ぎたら訂正すればいい。

最後は、みな言う。

「知らんけど。」

会話には責任を持たない、およそ適当な地域である。
人の話は三分の一で聞くトレーニングを幼少から積んできた人たちが多くいる地域は、政治家までそうだ。

失敗に対しての寛容度は高いかもしれない。


ともかく、プライベートの人間関係の中で、私がまともであることは、誰も期待していない。
次は、どんなおかしなことが、私の周りで起きるかは期待しているかもしれない。

その一番、面白いものを分けてこなかったと、私は、今朝、反省した。

「な、ケチやと言ったやろ?信仰が薄いねん、ほんまにな」と、ジーザスは言ったかどうかは知らんけど。


私が気づいたということは、私はすでに行動しているということ。

何度も書いているが、私は、気づいたから動く、は、ないわけではないが少ない。
動いたから気づいた、の方が圧倒的に多い。

カリフォルニアに行った後は、さらに、そうだ。
ほとんどそうだ。

ダンブルドアみたいな魔法使いとたった10分した会話(セッション)で、自分が「やり方を変える」と言ったことは、まだ私の中で機能し続けている。


そして、興味深い話を持っている友人、知人に「動画のゲストに出てくれ」と、昨日連絡して、寝て起きた後に、私はそれに気がついた。


ジーザスは、寝ている私に、何かする。

寝ている時は言い返してこないからだろう。
神さまはやり手だ。