クリスチャンじゃない友達に、どうして私の話は普通に聞くのに、他のクリスチャンの話を聞くのは嫌なのかを尋ねた話

私がクリスチャンになる前、私は、何人かいた自分のクリスチャンの知り合いや友人から「クリスチャンじゃない人に、神さまの話をするのは難しい」とか、気を使うとか、引かれるとか聞いていた。


へえ〜と思った。
確かに、私もあんまり聞きたくなかった。
話がよくわからなかったからだ。
何がすごいかもいまいちよくわからなかった。
神さまを信じれば救われると聞いても、私の方が楽しい人生を送っているように見えることが多く、神社にもお寺にも神さまはいて、クリスチャンの人が言う神さまの何が特別かがさっぱりわからなかった。

どう違うの?
むしろ、クリスチャンしか助けないというケチな神さまにすら私には思えた。
助ける人を選ぶの?
神さまなのに?

は?
ケチなの?

これが、私の正直な気持ちだった。
多分、おんなじような人はたくさんいると思う。

私の場合、近い友人が、クリスチャンとしか結婚したくないと言い出し、それは彼女の人生の選択の幅を狭めているように見えたので、さらに、キリスト信仰は人生の邪魔と私は思った。
(しかし、その後、彼女はクリスチャンの人と結婚したから、それはよかった。)


さて。
私がクリスチャンになって一年くらい過ぎた。
私は、どこででも、ジーザスや教会の話を繰り広げる。

別に伝道とか、あかしとか、そういうめんどくさい話ではなく、普通に話す。
(伝道とか、あかしとか、普通に話すときは、話にタイトルをつけて考えるとする方も聞く方もめんどくさいから、教会の外では考えないことにしている。ただのおしゃべり。)


だいたいの場合、相手は面白がる。
みんなにとって非日常だ。
そりゃ、面白かろう。
一番ウケるのはやはり、私が洗礼で溺れかけ牧師さんがあたふたした話で、これは、たくさん話したので、だいぶん、ネタとしてこなれてきた。


私が、クリスチャンになったと言っても、引いた人はひとりもいなかった。
それは、聞いていた話とまるで違った。


ある時、私は、友人に聞いた。
世では、あまり聞いてもらえないらしいんだけど、私の話を普通に聞くよね?


友人は答えた。

Yの話は面白いし、あんたは同意を求めてこないし、他人の宗教は尊重するし、自分が話したいから話してるってわかるから。
あんた、普通に、近所の人の話をするみたいに、ジーザスって話すやろ?
だから、普通に面白いと聞ける。
あんたが話すと、普通の話に聞こえる。
ほんで、あんた、幸せそうやから、あんたが信じてるもんは、悪いもんじゃないんなとわかる。



また、別の友人数名は、私がクリスチャンになった後、各自に起きたことで、私に連絡してきた。
彼らは、一般的なゆるやかな日本的な宗教感を持つ。

彼らは、頼んできた。

「祈ってほしい。」

彼らは知ってる。
私が祈るのは、ジーザスとジーザスのお父さんにだと。
でも、彼らは頼んできた。


そして、日本人や日本社会に原因があるんじゃなくて、話を聞いてもらえない理由は自分じゃね?と私は思った。

ちなみに、神様が、クリスチャンの言うことしか聞かない(ジーザスを信じてる人の言うことしか聞かない)というのであれば、自分が祈ればいいだけだ。
世界中を救ってくれ、と。

クリスチャンが増えるかどうかは、私が生きてる間は関係ない。
私にとっては。
私の家族、友人がクリスチャンかどうかも私には全く関係ない。
個人の好きにすればいい。
信じるものは自由だ。
信じないのも自由だ。
それは、人間が長い長い時間をかけて、多くの犠牲を払って手に入れた、思考と信仰の自由という宝だ。


私にとっては、クリスチャンしか救われないと思っている人は、全員、ケチだ。
クリスチャンしか救わないでくれと言ってるのと同じだ。

自分が祈ればそれでいいと私は考えてる。
だって、ジーザス、私のお願いは必ず聞いてくれるもの。
そういう約束よ。


おわり。