みくにとみこころ

朝、いつものように「主の祈り」をお祈りしていたら、突然、わ〜かった!そういうことか!と思った。

そうしたら、胸がポカポカしたから、多分、そうですよっていうことだろうと思った。
それが正解かどうかはしらない。

でも、あったり〜!という感覚。

「みこころの天にあるがごとく、地にもなさせたまえ。
みくにを来たらせたまえ。」

のところ。
文言、順番逆だけど。
でも、みこころ、みくに、の順番で来ると思う。

みこころと、みくにが、どこに来るかが、わ〜かった!と思ったのだった。
特に、みこころ。
みこころっちゃ、心だ。

なあんだ、とっくに、なさせたまってくださっておられましたわ!と、表現できるだけの敬語で思った。
みくにも、来らせたまってくださってましたわ。


そやん。
神さまには、実体がないのだから、みくにもみこころも実体はないわ、そうよ、と、私は思った。

な〜んだ、と。

毎日、あった、とっくにね!と思った。
そうして、胸はまた、ポカポカした。


私は、不思議だった。
なぜ、主の祈りを祈ると、胸がポカポカしてたまらなくなるのか。

ちなみに、主の祈りは、ジーザスが、生きている間に、弟子に、こういう風にお祈りしなさいねと教えたお祈りだ。
ああだこうだ祈らんでいい、こういう風に祈っといたらええんやでと言ったもの。

カトリックとプロテスタントで、少し文言が違う。正教系もちょい違う。
宗派によっでも違うが、まあ、中身は同じようなものだ。


まあ、ともかく、それで、どうして胸がポカポカするのかな〜と不思議で、なんで?と思っていた。

なんで?の答えが、わかった!だった。

なるほど。
な〜るほど!と、私は思った。


神さまには実体がない。
それが、どんなに、誰にも平等で公平なことかいたく感心した。
素晴らしい。

実体がないから、平等で公平にできるんだな。
そして、誰にも、みくにもみこころも来るんだな。

素晴らしい!と、私は思った。
これなら、スラムにもビバリーヒルズにも同じことが起きる。
公平に平等に。



そして、それから、差が出る理由は、やっぱりそうだと、再び思った。
やるかやらないかだ。

神さまにやってもらおうとする人には、何も起きない。
信じてるだけじゃ、何も起きない。
だって、かみさま、実体ないもん。
ジーザスいないし、今。

何にせよ、心と体がつながってることは、大事ねえと思った。
みくにとみこころは、首から下だなと思ったからだった。