続きのいろいろ。

続き。
まとまりなく。

私の人生が、割と自分が思うようになりはじめたのは、唐突に「人生に意味はない」と気づいた後だった。
「人生には意味などない。
自分が作る以上の意味はない。」

意味を探すな、人生の意味が欲しければ、人生の意味を自らで生み出せ。


気づいたというか、自分が書いていたものがたりの登場人物がそう言った。
不思議な感じだけど、そのものがたりは、多くのことを、私に「教えてくれた。」

それで、私は、全ての自分探しから解放された。すごく楽になったし、そして、嘘みたいに人生はスムーズになり始めた。

私は、起きる出来事から学ぶのをやめた。
私は、起きる出来事の全てに、自分にとっていい意味を持たせようとしはじめた。
過去の全てをそうしようと決めた時、過去は本当に違う姿になりはじめた。
過去にはもはや実体がない。
そう信じれば、そのようにある。

私は、10年ちょっと前の自分が持っていたのとは、全く違う子供時代を今、持っている。
それまでは、子供時代の傷でマイナスの側面が現れることが多かったけれど、今は、自分が育った環境は、自分にとってパーフェクトで、私が持つのは、必要な体験をちゃんと積んだ恵まれた子供時代だ。
私がそれが欲しいと望んだからだ。


自分が決めるように、意味は作られると、本当にそうなんだと、私は思った。


それは、過去ばかりではなく、今にも同じことが起きはじめた。

その後、意図的に意味やものがたりを生み出し、望むように未来を作り出すことができる質問の数々と、他人のそれも手伝うことができる方法に出会った。

それで、ますます、楽になった。

やがて、全知全能というシンボルを、私は、人生の中に迎え入れた。
人生はさらにスムーズになり、私は、一切の自己犠牲から解放された。



そして、ものがたりに書いたことは、後から、リアルとして現れることがある。
マダムYのおしゃべりも、おそらく、そうだ。

私が書いていたものがたりの舞台は、カフェだった。
最近気がついたのは、私がはじめたのは、バーチャルなカフェだ。
無料でお茶が振る舞え、誰でも遊びに来れるカフェ。


私は、自分で考えこむことを、今はほとんど放棄している。
自分に質問するか、全知全能に答えを教えてくれと祈るかして放置する。
わかるまで、別のことをやっている。

すると、必ず、そのうち、だいたい、朝起きた時に、答えがわかる。
誰か他人が答えを持ってくることもある。
ブログを書いていて気づくこともある。

ともかく、必ず、わかる。
わかる時が知る必要がある時で、時が来るまでは、ほっておいてもいい。

ちなみに、「わかる時」、は、言語化される時という意味で、言語化しないと行動に影響が出るものだけを、言語化しているのだと思う。

意味がわからない自分の行動を、私はほっておけるから。
私は、自分は変なことはしないと、自分を信用しているから、いつもいつも自分を見張っていなくていい。



意識は現実になる。

その意識は、必ずしも、自分が生み出す必要はない。
他人の手を借りたっていいし、わけのわからないところから知ったことでもいいし、古式ゆかしいものでもいい。



多分、誰のもそうだ、と、今朝、私は思った。

そこには、人間性は必要ない。
精神性の成長も必要ない。
ただ、そこに、必要なものは、希望や望みだ。


本当に望むこと、は、隠れていることが多い。
やがて、マダムYのおしゃべりもそのパートに入るけれど、人は、自分の望みを知らないことが多い。
望まないことを選択している人は多い。


身近な他人の文句ばかり言う人は、ほとんどそうだと思う。
他人について考えていて、自分について、考えていない。
時間を捨て続けている。

他人は変える必要がない。
自分の人生が変わればそれでいいのだから。