なんでも才能ちゃうし

ある友人と話していて。

なんでも才能ちゃうし、という話を友人が始めた。
なんでも持って生まれた先天的なリソースや長所が理由なわけでもなきゃ、才能が理由というわけでもないし、という話。

歯をくいしばるようにしてだったり(昭和ののり)、地を這うようにしてだったり(昭和ののり)、悔しい思いや恥ずかしい思いをたくさんしながら、それこそ泣いたことだってたくさんある中、経験値を積んだ結果、「今はできる」ことだって、誰にでも、あるわいねという。

才能があったかなかったかじゃなくて、やったかやらなかったかだけが理由ということ。

まあ、そうやね、フィギュアスケートも、いくら才能があっても、スケートを習い始めた日にはトリプルアクセルは飛ばれへんなあ、と言った。
スケート靴を初めて履いたその日には、才能があるかないかはわからないし、練習を続けてみなければ、才能があるかないかすらわかんないかもねえ。


友人はなんでも、最近、いろいろな人と話していて、それを強く感じたのらしい。
「頑張ってきたり積み重ねてきたことがあって、初めてそれができるようになったという人を、最近、たくさん見てねえ・・・。」と言っていた。
才能があるな・・・と友人が思う人に話を聞くと、皆、過去に下積みとしか言いようのない期間があることがわかり、結局、才能もだけれども、その下積みとしか言いようのない期間をやり切ったかどうか、そこが結果には影響してるんじゃないかと友人は感じたのだそうだ。


そういえば、知り合いのフリーライターさんが、昔、似たようなことを言っていたなと思った。
その人は、新聞に記事を書いているのだが、しょっちゅう「文才があっていいですね」と言われることに辟易していた。

「僕はさ、努力したんだよね。
 そっちを認めてもらいたいんだな。
 なんでも才能で片付けないでほしい。」

へえ〜、才能があっていいですやん、と私がいうと、「才能だけでは無理だ」とその知人は言った。
僕は努力した、と。
その人は普段はすごく優しい人だが、そこは、どんなに才能があっても、数を書かなきゃ無理だと少々、語気を強くして言っていたのを覚えている。


まあでも・・・・今から下積みできないことは、私は才能がなかったことにして片付けることも多々ある。
その方が精神衛生上、楽だからだ。

例えば、私は今からフィギュアスケートの選手にはなれない。

その場合、頑張り切った誰かに、心からの拍手を送ることにしている。
そうやって眺めると、人生には、自分が頑張らなかった何かを頑張った人が溢れていて、すごいねえ・・・と思うことがたくさんあり、なんだかとてもいい世界に住んでいるような気がすることがある。