悪知恵のめざめ

給食。

毎月、学校で給食の献立表をもらう度、私は真剣にそれを眺めた。
この日とこの日は大丈夫。
ここはだめ。
ここは熱を出して休みたい。

私は、どこのクラスにもいたであろう、最後まで食べていて、食器を運ぶ子供だった。
小学三年生の途中までは、お弁当持参の学校に通っていたので問題なかった。
もしも、最初から給食だったら、私は泣いて学校に行かなかったかもしれない。

小学三年生は、一年生よりは成長している。
少しは忍耐力も知恵もついている。
そういうわけで、給食ごときで学校に行かないことはカッコ悪いと私は知っていた。
都合よく熱出して休む場合でも、親には給食が理由だと絶対にばれないように細心の注意を払った。
子供ながらにプライドはあったし、そんな理由で休ませてもらえるとも思わなかった。
私はしょっちゅう発熱していたから、熱を出すのは信憑性があったのだ。


ともかく問題は、いかに給食を乗り切るかである。
豚肉、クジラ(昭和の話なので)、鶏肉、ほとんど毎日、どれかはでていたので、サバイバル。

私の知恵は、給食により急速に発達したと言っても過言ではないと私は思っている。
悪知恵の方。

最初に思いついたのは、助け合いだった。

私は牛乳が好きだった。
牛乳が嫌いな子はたくさんいた。
私は肉が食べられなかったが学校で出る野菜は、小さく切ってあったので食べられた。
しかし、野菜が食べられない子も割といた。


私は、それらの子供との、トレードを思いついた。
そおっと先生が見ていないすきに、おかずや牛乳をかえっこした。
または、肉に自分のデザートをつけて渡した。
デザートをあげるから、これも食べてと。

幸い、肉を嫌いな子は少なかったので、これはなかなかうまくいった。
しかし、それはいつも使える方法ではなかった。

自分の席の近くにそういう子がいない時は、給食袋の中にいれたビニール袋に、食べられないものをぽいぽい放り込んだ。
先生を見張りながら、作業しながら食べるので、肉が出た日は、食べた気がしなかった。

周りからは見えていたはずだが、先生に告げ口する子は誰もいなかった。
また先生にも怒られなかったけれど、通知表にはしっかり、偏食が多いと書かれていたところを見ると、先生には見えていたのだろう。
見てみぬふりをしたのかもしれない。

そのビニール袋を家に持ち帰ると母に食べものを粗末にしたと怒られるので、私は、帰り道の用水路にそれを捨てて帰ることにしていた。


ある日、Yちゃん、と母に呼ばれた。

あの用水路に浮かんでるたくさんの袋は、Yちゃん?


勘のいい母親は、まったくもって迷惑。


母は、買い物帰り、ふと用水路に目をやり、そこに浮かぶ大量の小さなビニール袋の塊を見た。
そして、ビニール袋の中身を見て、これはうちの子の仕業だと確信したらしかった。


私は、しぶしぶそうだと認めた。
先生が、残しちゃいけないっていうから、と。

母は静かに言った。

仕方ないわね。
持って帰ってきても、怒らないから、家までちゃんと持って帰りなさい。
用水路を汚しちゃだめよ。

気のせいでなければ、母は、笑いをこらえているようにも見えた。


私は反省はしなかったが、学んだ。
もう少し、やり方を考えなければいけなかった。
当時、私は、悪知恵という言葉はまだ知らなかったが、悪知恵について考え始めた。


そして今。

知恵も私を助けるけれど、世間を生きていくのには、この悪知恵も同じように私を助けている。

それは、清くも正しくも美しくもないけれど。

意味がわからない押し付けられる嫌なものがあって、対処として正攻法が無理な場合は、これは給食だ(つまり自分の力ではそれ自体はどうにもできない)と思い、淡々と悪知恵を働かすことにしている。

もしもあの時、親か先生が私に助けの手を伸ばしたら、それらは身につかなかったはずだ。
私の人生の初期に訪れた世間との関わりの中での困難を乗り切ることを、私の力で解決させた周りの大人に感謝している。