我慢

幼い頃から、母の口から、我慢、という言葉が出るのを何度も聞いた。

我慢しなさい、というものだ。


あれが嫌だ、これが嫌だ、あれ欲しい、これしたいと訴える子供に言うそれだ。

理由はついていなかった。
ただ、我慢しなさい、と言われた。


大人になったある日、彼女が言った。

我慢は何の役にも立たない。
我慢は無駄だ。


実は、私が1回目の離婚を決めた時に、彼女が言った我慢は無駄だという言葉が影響していた。
彼女は、私の結婚についてそれを言ったのではなかったが、彼女が言った「我慢は無駄だ」という言葉には非常に説得力があったのだ。

私は、目で、忍耐強い彼女の我慢が、全く報われないところを何度も見ていたから。

妹も、我慢は無駄だとよく言うから、我慢しなさいと教え続けた人が、娘達に見せたものは、我慢は無駄だということになる。

言葉で教え続けたことより、態度で見せたことに説得力はあった。


我慢しなくなった母の行動は、戦いを生み、両親は絶えず喧嘩するようになった。

私は、誰かの我慢で成立している嘘くさい関係を見せられるより、すっきりしていて気分がいいと思った。
勘のいい子供は、親の嘘は見えている。


長い間、私には、我慢は、嘘、を意味していた。
我慢することは、自分の気持ちに嘘をつくこと、と定義されていた。

欲しいのに、欲しくないふりをすること。
したいのに、したくないふりをすること。
嫌なのに、嫌じゃないふりをすること。

誰のため?


そして今、母がよく言う言葉がある。

みんなが少しだけ我慢すれば、それですむ。
みんなが少しだけ我慢すれば、もっといい世の中になる。
誰かだけがものすごく我慢するのではなく。

我慢という言葉は、少々軽やかさを伴って使われるようになった。

少しだけという言葉を伴って。



さて、私に戻ると、私はものすごく我慢強い、忍耐力が強いという評価を頂く時と、真逆の評価を頂く時の両方がある。

相手や事象によって、我慢するかしないかを変えているからだろう。

我慢は、私にとっては、手段のひとつでしかない。
常に有効に働く、常に使えるとは限らない手段。


ひとつだけ、プライベートで、男性には、一切我慢しないと決めている。