自分探し

自分探しという表現。

この「自分」「自分探し」はメタファー的な表現です。
物理的には自分は24時間365日、必ず自分の肉体と共にあり、探すまでもなく、そこに存在します。

その人自身から、自分が行方不明になることは物理的には不可能です。
こういう場合、いいや魂は行方不明になれる、、、とかいう話は、私は嫌いです。
論理的ではありません。


自分がわからず自分を知ろうとすることと、自分を探すことは別です。

しかし、時に人は自分を探します。
あるものは探せないので、それで、自分探しはメタファー的な表現です。

この時の、自分、は、いったい何を指しているのだろう?
いったい「自分」という名前の何を探しているのだろう?

それは長い間、私の疑問でした。
探すったって鏡見ればいいやん、と言って、それは外に書くなと笑われたことも何度かあります。


時には、単に旅する理由が必要で、旅行を少しばかり意味あるもののように見せるための修飾詞として、または、習い事に打ち込む理由をおしゃれに見せる修飾詞として、その自分探しという表現は商業用のコピーとしても使われています。
余暇や休憩に伴う修飾詞のイメージが個人的には強いです。

言葉は力を持ちます。

自分探しをする時、ゴールは、必ずその人自身がいる場所です。
スタート時にすでにゴールにいるわけですが、自分探しという言葉の力はパワフルで、自分、を探し始めると、かなりの高確率で迷子になるようだということに気がつきました。

自分、が、何を指しているメタファーかに気がついていない時に。


さて。

自分、というメタファーが登場する時、その自分の中身は実に様々であるということをクリーンランゲージのセッションを続ける中で、クライアントの口から聞きました。

そして、ああ、そうか、、、と思いました。


自分探しという言葉が、なぜに、人を迷子にさせるのかは、きっとこれだと思ったのでした。

自分「を」探すことを自分探しと言います。
自分探しをする人は、何か探しているものがあり、それはその人それぞれのはずです。

自分というメタファーの中身について表現するクライアントの言葉は多種多様です。
自分探しは、何かしら探しなのだと思ったのでした。
多種多様な。

では、自分「を」探すのではなく、自分「が」探しているものに目を向ければ、迷子率は下がると思ったのでした。


それは、自分という存在が何者かについてその答えを探すのでも、自分の生きる意味を探すのでも、向いている仕事を探すのでも、ただ人生に疲れたのでもなんでもいいと思うのですが。

探しものを自分という単語ひとくくりにしてしまわないで、何を自分は「自分」という言葉で表現しているのか、一歩だけ踏みこめば、何年も散財し続けることにはならないのではないかと思ったのでした。


これは、以下の質問で対応できます。

自分探しという時、
-その自分について、他に何かありますか?

-その自分は、どんな自分ですか?

-その自分は、どこにいますか?

-その自分が見つかると、次に何が起きますか?


答えは様々。
自分探しではなく、職探しなのかもしれないし、自分ではなくパートナーを探した方がいいのかもしれないし、自分との付き合い方を見つけた方がいいのかもしれないし。
ただ、楽に生きていきたいだけなのかもしれないし。

それとも、全く違う何かなのかもしれないし。
なんにせよ、答えは、その人のみぞ知るです。


もしも、もう二十代ではない方で、自分探しをされている方がいたら、一度、自分に質問をしてみると早いかもしれません。
二十代の方は、好きなだけ悩めばいいかと思います。

時間は永遠かもしれませんが、人生は永遠ではありません。
また、タイミングが関係する物事もたくさんあります。
人生は何歳からでもやり直しがきくということを否定はしませんが、この世は年齢と無関係ではありません。
70歳でできることと35歳でできることは異なります。
リミットがある物事も、現実的にはたくさんあります。

もう少し早く気づきたかったという方に、私は実際にお会いします。
経験的には、自分探しの裏には欲しいものや望み、悩みが隠れていることがほとんどです。

遠回りせずに、欲しいものは欲しいと認めた方が早いこともあります。
そこにエネルギーを注ぐことができるからです。

悩みは悩みで、直接そちらにアプローチした方が早いです。


その「自分」が何を表した比喩なのかということに気がつくだけで、ぴゅんと飛べることもあるかもしれません。

または、気づきたくない自分に気づくこともあるかもしれません。

気づかない自由はあります。
認めない自由も、変わらない自由もあります。
成長しない自由もあります。
それらは義務ではないと、思います。

気づかなければいけないという思い込みが生む苦しさから解放されることもあるかもしれません。


自分を探すのではなく、自分が何を探しているか?見てみると、わかる何かがあるかもしれません。

ちなみに、最後にちゃぶ台をひっくり返しますが、自分探しをする自由、自分を探す自由は、もちろんあると思います。
迷子になる自由も。

誰しも、自分の人生の責任は自分で負うのですから、他人が口出しするのはちゃんちゃらおかしいということは、よく理解しています。

言葉、の話でした。