多様な価値観

価値観は多様だというフレーズは大人になってから知ったが、価値観は多様だということは、価値観という単語を覚える前から知っていた。

そして、それに振り回された。
両親だ。

なぜこの人達は、こうも真逆のことを言う?というくらい、2人は異なることを言った。
いまでも、よく一緒に暮らしていられると感心する時もある。
表面的には合わせているふりをしていることはあるが、どちらも自分の意見を曲げない。

(だから、よくもめる)

言葉も、父は大阪弁を話し、母は標準語で話す。
彼女は関西以外の出身で、大阪弁ががちゃがちゃしていて好きではないらしい。
言葉も文化的価値観を持つから、すでにそこで価値観は分かれている。
ちなみに、母は関東の出身ではなく、母の標準語は本人の努力で身につけたものである。


親2人が違うことを言う時、子供は混乱する。
親は、正しいことを言っていると小さい子供は疑わないが、まさか正しいことが2つあるとは子供は思わない。

ましてや、正しいことが人によって違うなんて。
そんなことは、誰も教えてはくれない。


例えば、母は言った。
人に迷惑をかけてはいけません。

父は言った。
人に迷惑がかかるとかかからないとかいうことは、あまり気にせんでええ。
何を迷惑と思うかは人によって違う。
迷惑がかかるからやりたいことをやらないというのは理由にならん。


5才の頃から悩みに悩んだ。

どちらが正しいのだろう? 

ひとつだけの正解を考えに考えた。
親の言っていること以外にも答えがあるかもしれないとは、子供の脳みそでは辿りつけなかった。


ここでまた一つ、問題があった。

両親は何かを聞くと、互いに相手に聞いてくれと言った。

母に尋ねれば、お父さんに聞いてごらんと言い、父に尋ねれば、お母さんに聞け。

この2人は、一緒にいることは少ないので、私は家の中を行ったりきたりしたあげく、最後は2人から同じことを言われるというのがパターン。

自分で考えなさい。
自分の頭を使いなさい。


5歳は自分の頭を使ってみたが、だいたいの場合、自分で考えたことは後から、なんでそんなこと!と2人から怒られるはめになることが多かった。

私の人生経験値が圧倒的に足りなかった。
世渡りの術もまだなかった。

聞いても教えてくれへんかったくせに。
考えろっていったから考えたのに、どないやねん、、、と小さな頃、よく思った。


そういう時は、彼らは気があう。

ちなみに、もしも、私の子供が5歳の私がしでかした数々をしたら、私も、なんでそんなことを!と言うだろう。

傘で空を飛んでみようと高いところから、傘を開いて飛び降りてみるとかそういう類のことを、私はよくしていた。

ちなみに、傘で飛んだ時、母は、危ないでしょ!と怒り、父は、傘は空を飛ぶようには作られていないと淡々と笑いながら言った。

両者共に同じことについて語った正解であり、傘で空を飛ぼうと高いところから飛び降りるという行為がいかに間違えているかを、異なる視点から語ったものである。

しかし、子供には、違う話に聞こえた。
彼らは価値観も違えば、視点も違った。


ちなみに傘で飛ぶ実験は、何度目かの失敗の後、傘の破損にブチ切れた母にかなりきつく叱られて取りやめとなった。

傘はただ(無料)じゃないのよ!と。

危ないからでも、傘の用途を間違えてるからでもなく、傘にはコストがかかるという、新しい視点の登場である。


大人になる頃、私の中には、あるひとつの考え方が出来上がっていた。

人は自分が正しいと思うことを正しいと言い、そうでないものは正しいとは思わない。
そして、正しいがいくつかあっても、人は共存できる。
ただ、あまりに違う意見を持つ人が、狭い空間に一緒にいるのは、相当な努力が必要なようだ。



価値観の多様性を受け入れましょうというフレーズが登場した時、なんと当たり前で難しいことを今更と思った。
そして、少しばかり、両親に感謝した。

彼らが、彼らのままでいてくれたおかげで、私は身をもって、価値観は人によって違う、受け入れがたい価値観もあるということを覚えられたからだ。

そして、異なる価値観が現れた時、相手に変わってもらおうと思っても無駄だということを、両親の姿から見続けたからだ。
両親は、互いに相手が変わることを望んでいたが、それは未だに起こっていない。

私は、彼らが、他人に変わることを期待しても無駄だということを見せてくれたことに感謝している。


そして、他者の価値観を大事に扱おうと思うなら、まずは、自分の価値観の確立が先だということ。
でないと、他人に振り回されるだけだから。
5歳の私のように。

自分の中が揺るがなくなればなるほど、彼らとの関係は良好になった。
彼らの価値観と私の価値観は、掛け離れたものとなっていったにも関わらず、価値観があやふやな時よりいい。

まあ、価値観もまた変わるものだけれど、自分の価値観を持つことを恐れる理由はないということ。

相手を理解できなくても、分かち合うことや存在を受容することはできる。
考えを受容しようとするとジレンマが生まれることはある。



最後に、最近のはなし。

いまや、それぞれが様々な意見を持つ4つあるN家の価値観を、姪っ子は笑いながら楽しんでいるように見える。
彼女のパパはまた異なる価値観を持つ。

2つより、さらに多い数ある価値観は、面白さを生むらしい。

多様は少なくとも3以上のことを指すのね、2だと争いが生まれても3以上あると争いにはなりにくいのだな、というのが、私の気づき。