魔法は禁止の礼拝マジック。
礼拝中、おっちゃんUさんは、静かに熱く聖書の解説をし、教会の人たちは黙って聞いている。
それぞれ何か感じたり、考えたりしながら。
私といえば、ああ、これは三匹の子豚の元ネタだなとか、あの小説の元ネタはここだなとか、これは〇〇とか、物語や映画やドラマのことがよく浮かぶ。
パウロが書いたところは特に。
なるほどねえなどと思いながら、絵を描いたり、色を塗ったりして過ごしている。
おっちゃんUさんが解説してる時は、時々、話が聞こえなくなって、話をまったく聞かずに、絵に集中して、必死で色を塗っていることはある。
(それは神の思し召しということにしてある。)
昨日、礼拝後に、Yさんが、「みなさん、何か感じたことや報告、シェアなどありますか?」と言い、みんなが黙っていたので、私は言った。
「また、関係ないことかもしれないけど。
聖書は、人の創造性を刺激するんだなあと思いました。
この前のは、三匹の子豚で、今日のはトルストイのあの小説のたたきになってる気がします。
聖書のおかげで、いろんな物語が生まれたなあと。
(たしか、スターウォーズもそう。)
私は、色を塗ったり絵を描いてるし。
礼拝は、遊んでるみたいなもんだなと思って。
それで、結局、救いって色々あると思うんですけど、ジーザスが私を教会に誘ったのは、遊びにおいでだったんだなあと、最近すごく思います。
私への救いは、遊び。
私は、自分は特に問題を抱えていません。
けれど、考えなくてはいけない問題は、毎日毎日、いろんなところからやってきます。
私は頭を、誰かの問題の解決のために使っていることが多いです。
礼拝は、私にとっては遊びみたいなもので。
歌を歌ったり、話を聞いて浮かぶことを自由に考えたり、絵を描いたり。
人とおしゃべりを楽しんだり。
ともかく、いったん、頭の中を空っぽにして、普段と関係ないことを考えて、背負ってるものを全部下ろして、好きに遊んだらいいよ、遊びにおいでという誘いだったような気がします。
救いもいろいろですねえ。」
Yさんは笑いながら言った。
「今、あなたが遊びと表現したことは、聖書的には、解放と言います。」
Yさんは、優秀な通訳だ。
だいたい私の言葉を聖書的に翻訳してくれる。
逆もある。
聖書の言葉の定義や概念は、一般と違うことが多々あるが、単語自体は日常でも使われているから、混ぜるとややこしい。
価値観や定義が違えば、日本語も外国語みたいなもんだ。
つまり、ほとんどの人と、毎日、日本語という外国語で会話している。
自分と全く同じ価値観、定義を持つ言葉を話している人はいないから。
ともかく、Yさんの言葉を聞いて、私は、なるほど〜と思った。
私にとっての魂の解放って、遊ぶことか。
魂までも、あまり真面目じゃないらしい。
おっちゃんUさんが今日話していたのは、どうやら解放の話だったらしく、(途中から聞いていなかった)、私とYさんのやりとりを聞いていたおっちゃんは、「関係ないことを話しているようで、ちゃんとオチはつく」と、得意げにニヤニヤしていた。
聞いてなくても、ちゃんと話は聞けてる。
これが、礼拝マジック。
あ、マジック(magic/魔法)は禁止やった。笑
聖書的に言い換えよう。
The work of Holy Spirit from love of God.
神さまの愛からの聖霊の働き。
言葉遊びも、また楽しい。