胸が火事

 

胸が火事。

こんなの人生ではじめて。


だいたいいつも胸は温いが、こりゃ熱い。

なんじゃ、こりゃ。


これは日曜日からの流れ。

ブログを見直してみたら、日曜日の朝に、私は尊厳というか、個人の思いは大事ねえ的な話を書いているので、話はどうやら礼拝前から始まっていたらしい。


それを書いて礼拝にいき、礼拝の後に、個人の思いが尊重されない、つまりこの場合の尊厳は人格の尊厳、それがジーザスの名のもとに尊重されない事例が、2つほど、私の目の前で、耳に入った。


相変わらず、よくできた流れだ。


その出来事や聞いた話については、もう祈っちゃったから別にやることはないし、咀嚼したからどうっちゅうことはないのだが、なんかもっと真ん中のことがある感じがする。


それで昨日の夜、友人とその話をしていたら、というか友人に聞いてもらっていたら、友人は言った。


「なんか、ほら。小学校で、乾電池に電球をつなぐ実験した?」


私は、「直列つなぎ!」と言った。

理科のテストの答え。

頭の中に図が浮かんだ。

どうやれば電気がつくか、電池を線でつなぎなさいという問題の図。

私はあれが大好きだった。



友人は、「そう、そう。直列つなぎ。線を乾電池にちゃんとつなげると、電気がつく。なんか、その線が、ぱちんと正しい場所に当たるその手前みたいな感じの話ねえ」と言った。


私は「とにかく胸が熱い」と言った。


友人は「なにか本当に大事なこと、それこそこれからの人生に関わることのスイッチが、もう少しで入ります、みたいな感じがするけど」と言った。


私は、「つまり、教会の人たちは、私の胸が火事になるような話を聞かせることで協力してくれてるってことだよね。仲間ね」と言った。


友人は、「そうなんじゃない?」と言った。



とりあえず、キーワードは尊厳。

これ、平和ともものすごい関係するのは、知ってる。


そして、聖書の中にも、ちゃんと、尊厳の概念にあたる記述はある。

ジーザスがそう行動してるし、ジーザスはそう言ってる。

ルカの福音書の、血をだらだら流してる女の人の話のところで。



ただ、生きてる時のジーザスはそうなんだけど、聖書が不思議なのは、死んだ後のジーザスが出すメッセージは、時に戦いに満ちること。

生きてる時はあんなに優しかったし、平和主義だったのに、同じ人?というくらいにムードが違う。

パウロが戦い好きだったのかもしれないな。

新約聖書は、ジーザスの伝記パート4つ(福音書)以外は、ほとんどパウロが書いてるから。


これは、なんでなんやろう?と、素直に不思議。

まるで別人みたいだわ、ジーザス。


ふっしぎ。

私は、4つの伝記パートが好き。

ジーザスの言ったこと、やったことを読む。

どうやれば、私にも私なりにできるかな?と考えながら。


パウロは嫌いじゃないけど、そりゃどうなんですかねえと思うところがたまにある。

時代が違うのもあると思うけど。


ジーザスはちっとも偉そうじゃないけど、パウロは偉そう。

と、私は、たまに感じる。

人間なのにさ。



話がそれた。


尊厳の概念自体は、ギリシャ時代からあるけれど、思想信条にも関係する人格の尊厳の概念の登場は、ジーザスの死後、ず〜っと後のこと。

パスカルとか。

そして、社会ではっきりそれが明文化された憲章が登場したのは1945年。


まだ新しい。


なにしろ胸が火事で、頭は北極というおかしな事態なので、まだなんかありそうだ。