いろいろ

受容と諦めはとても似てる。

仕方がないと諦めることを受容と言ってもいいような気ぐらいする。


「もう、しゃあないやろう」という発言を、ここ最近、何度も聞いた。

私自身は随分前にそう思い始めていた。


存在を受け入れる話。

その存在が人生上に在ると、諦める話。


無い方が嬉しいが、在るから、もう仕方がない、うまく付き合っていこうと、頭を切り替えた人が、この一か月くらいで増えたのかもしれない。


心理的な戦いをやめて、新しい日常に「戻った」人が増えたのかもしれない。


War is over.


友人知人のほとんどは、去年までとはなんらかの形で生活が変化している。

ほとんど全員が、以前は身につけていなかった物を身につけている。


変容だ。

外国には、この変容に対して、抵抗勢力が戦い続けているところもあるようだ。


生活パターンが変わった人も多い。

仕事に変化が生まれた人も多い。

これまた、変容だ。



受容する人が増え始めたタイミングには、希望の持てるニュース、この場合にはまさにレメディ(薬)の存在が確かになり始めたことがある。


私は、一連の流れの中を生きていて、観察していて、ああ、世界平和は個人からというのは本当だと、何度か思った。

それはよく言われることで、私も含めて、個人のサポートをする人達が、頭に置いていることが多いことだ。


ひとりが平和を得ることは、100万人が平和を得るのと同じ価値がある。

一人が救われることは、世界中を救うのと同じ価値がある。



私は、この数ヶ月で、社会や世界は、個人の集まりだと、はっきり認識した。

流れが、個人に起きること、しかも順調なパターンと同じだったからだ。

現在は、試行錯誤の最中だ。


社会と個人の違いは、多数決の要素が加わることだ。

多くが選択したことが、優先される。

それを自分が好むか好まないかが生まれること。


個人の選択の集合体が社会の選択で、その社会の選択に合わせて、また、個人の選択が生まれる。


個人の選択と、社会の選択は絡み合う。



心の平和は、現実の平和からしか得られないわけではなく、心の平和が、現実の平和を生むこともある。

少なくとも、問題解決がなくとも、平和な雰囲気は先に作れる。


なんとなく、平和な雰囲気を作ることを選択し始めた人が増えてきた気がする。

ようするに、普通にやろうとし始めた人たち。

新しい普通を作ろうとし始めた人たち。



変化を受け入れた時に。

変容を受け入れる時に。


それは、今までを手放すことを含むことがあり、この手放しがやや痛みを伴うことはある。

けれど、未来への希望や笑いで、その痛みは緩和できる。



問題解決は、受容から始まる。


今のこの場合は、恐怖と不安の受容だ。

レメディとして使えるのは、希望、好奇心、ユーモア、温もり、信念など。



新しいことは何も起きておらず、古くから続いてきたパターンを、私たちは繰り返している。

ただし、社会の知恵が格段に発達している。


人間という種は、もう長らく進化していないのかもしれない、けれど、社会は進化してる。

社会がより多くを救おうとしている。

(でなければ、行動制限も、財政対策も、医療崩壊を防ぐ試みも必要ない。)


人間は、社会的には進化している。


ということにも気がついた数ヶ月だった。



そして、社会が個人の集合体ならば。


この後に訪れるのは、豊かさだ。

タイムラグはある。

セオリー通りにいくなら、変容の後にやってくるものは、間違いなくそうだ。


試行錯誤を繰り返して、多くの失敗を重ねた後、という条件付きではあるが。


諦めなければ、やがて、おそらく、経験したことのない豊かな社会がやってくる。


社会は個人の集まりだ。


つまり、個人個人が、人生を諦めなければそれは来る。

そして、それを、独り占めしないことを選択する個人が多数になれば。



私は、そちらに、一票を投じたいと思う。