火力発電所

朝早く目が覚めた私は寝起きざまに「やっぱ体験なんですな、だんな」と思った。


神さまが統率する信仰ですら、そこにあるのは個人の体験だ。

わ〜かった!と、私は思った。

聖書のお得さにも気がついたが、聖書に全ては書いていないことにも気がついた。

書けなかったのだ。

まあ、その時代、まず文字を書けた人数がねえ。

ブログもないし。



「やっと気づいたか、信仰の薄いもの」と、ジーザスが珍しくため息はなく言った気がした。


「だから、神と共になんですね、だんな!」と私は、また思った。

ああ、そういうことかと。

体験だから「共に」なんだと、私は思った。

それしかやりようがない。



胸の熱さは夜少しひいて、今は、だいたい普通。

昨日の夜、夫とビデオ通話で話したときに、夫には「罪深すぎたら、燃えて灰になるから消えたらごめんなさいね」とは、一応、伝えておいた。

夫は、おかしそうに、ニヤニヤ笑っていた。

この人は、私のジーザスばなしを面白がる。



で、時間をまた今に戻す。


聖書のエピソードについて、考えてみた。

ジーザスの人生ダイジェストのところ。


人間の人生というものが他人からどう見えるかは様々で、同じものを見ても同じようには感じないし、また、同じには表現しないことは、4つの人生ダイジェストが教えてくれている。


まあ、聖書を読まずとも、ヤフコメで十分わかる。

同じニュースを読んで人が抱く感想とそこから派生する思考の多様さ。


起きたことはひとつだが、その表現はひとつじゃない。


それをひとつに絞らなかったこと。

そもそも多様な理解がそこにある。


私は、ギリシャの知恵をそこに感じた。

それなあ、ギリシャやわ、、、と思った。


皮肉なもんだ。

過去に弾圧の限りを尽くした哲学の考えが、人間の知恵が、きっと多様だから2000年も読者をなくさなかった本の成立に力を貸してくれていると思われること。


メタファーの物語。

ジーザスも大好きなメタファーは、ギリシャ人が最初に気づいた。

ジーザスは哲学者を迫害しなさいなんて言わなかったけど。


神の名のもとに、いったい何人殺してきたか。

ホロコーストをやらかしたのも、クリスチャンだ。

十字軍で殺戮の限りをつくしたのも、よその国に侵略して勝手に国境線を引いたのも、クリスチャンだ。


まだまだいくらでも書ける。

世界史の復習をしているわけじゃないからやめるけど。笑



人を愛せとジーザスは言ったのに。

人種で人を選ばなかったのに。

神のもとには皆同じ、栄光は全て神のものと言ったのに。



私は、もしも、他者の罪も、私の罪なら、私の胸は、火力発電所並みに燃やされ続ける、えらいこっちゃ!と思った。


聖書の中に生きてる人には原罪しかなかったかもしれないけれど、そのあと2000年、やらかしたもの〜、いっぱい!大量!


パウロの時代にすでにやらかしまくっているのは、パウロが書いてる。

ジーザスは愛し合えと言ったのに、争いまくってる。

それを諌めるパウロは、たまに、なんか変なことを言う。


ん?全ては神の栄光なのにと私は思う時がたまにある。

ジーザス、そう言ったじゃん。



そして、それからしまった!と思った。

祈ってしもうたわ、毎日毎日。

「我ら」の罪をゆるしたまえって。


それは、ジーザスがこうお祈りしなさいねと教えたお祈りだ。


しまった!と私は思った。

作戦か!

ジーザスは神の子だが、人間としてはスーパー預言者。

お祈りに仕込むくらいはやるだろう。



「気づいたか、信仰の薄きもの」と、ジーザスがニヤニヤした気がした。

「君の祈りは叶えてあげよう。」


しまった〜!と私は思った。

1人分でもいっぱいなのに、クリスチャンの歴史分となると、大変なことよ!と私は思った。


犯した罪を知りたい人は、世界史の本や教科書をどうぞ。

平和を語るジーザスの弟子であるクリスチャンは神の名のもとに、世界平和に反することを、やらかし続けてきたのだから。

現在にまで禍根を残している話もある。


(日本は、宗教感がゆるくて私は大好き。信仰は個人のものがはっきりしてる。だから平和なんだと思う。このままのゆるさでこれからもいこうと、私はよく思う。)



それから思った。


いや、わからん。

たとえば、火力発電所は、燃えなきゃエネルギーが生まれない。

焼かれるのは罪だ。

クリスチャンの歴史の中で、クリスチャンが犯した罪を焼き続けてくれたら、私の中にとんでもないエネルギーが生まれるんじゃないか?と。


私がよければ、私はなんでもいい。

罪深いのは平気〜。

当たり前のことだから。




さっきはっきり気がついたように、これはどこまでいっても、私個人の体験なのだから。


クリスチャンの体験、は、ない。

そこにあるのは、私というクリスチャンの体験だ。



だが、もしかしたら、クリスチャンの国が発展を続けたのは、この罪を焼くパワーのおかげちゃうか?と私は思った。


人はどんな善人でもミステイクを犯す。

焼く材料はいくらでもある。


私は善人じゃないので、山のようにある!

いばることではない。


いまや原罪などはるかに超えた罪を犯しまくった人間の罪を焼き切ることを、エネルギー源にするなら。

他人の罪を燃やしてもらうなら。


「だって、君、毎日、祈ってたじゃない。ただし、君が他人を許すようにって君は祈ってるから、君が他人を許さなきゃ僕は君を許せないんだけどさ」とジーザスが言ったような気がした。


君が望むように。

だって僕は君の願いを叶えたいのだから。


「僕の言葉をよく読んだ?信仰の薄きものよ」


てへっ。


燃えろよ燃えろ〜よ〜、炎よ燃えろ。

こりゃ、当分熱いなと私は思った。


そして、それから、胸が熱いを表すシンボルのメタファーが変容してることに気がついた。

問題がリソース化したな。。。


これは、話を混ぜるとややこしいからまた分けて書こう。