人の尊厳、神の意志

 当人または当人たちは、全然そんなつもりはなく、もうそれはいいことだから!と信じきって行われたことが、その後引き起こした数々のこじれた人間関係ケースをたくさん見た後で、私はクリスチャンになった。


キリスト教の持つ負の部分を私は先にたくさん見た。

世界史もそうね。

ジーザスは元から嫌いじゃないが、私の中では、人殺しや迫害をさせる宗教として、キリスト教はカテゴライズされていた。

人間のいのちの尊厳を軽んじる宗教。


人間関係において、私が関わったのは、親子の断絶、友人の喪失、主にはなしは関係性。

信仰を持たない側が、責めたてられたり、強要されたことにより、完全に宗教アレルギーを起こしていることが多かった。


キリスト教は愛を語るのにおかしなことだわね、と、私はよく感じた。

人間の人格の尊厳を軽んじる宗教。



まあ、宗教がテーマでなくても起きるパターンが起きていたが、そこに信仰が絡む時、話はさらにややこしかった。



それは「私」のはなしではないと、割り切ることで、私はクリスチャンになった。

自分で決めた。


なぜ特定の信仰を人生に取り入れたかは、前に書いてる。


M先生やアメリカの友達の存在は大きかった。

彼らは、人間の尊厳を尊重していたからだ。



個として、信仰しているように見えた。

それが私を安心させた。



さて、そうやってクリスチャンになった私に、同じ教会の人はにこにこして軽く言った。


「次はご主人ですね。」


は?と私は思った。


誰にも悪気はない。

クリスチャンになって救われることは、「いいこと」なのだから。

それを口にする人たちは、私の教会の人だけでなく、ことごとく無邪気だ。


聖書にはそんなことは書いてない。

聖書の教会に集まった人たちは、勝手に集まったのだ。

噂を聞いたり、見たりして、自分で勝手に信じて、勝手に。



そして、21世期日本の概念では、人の信仰を他人が誘導したり強要したりすること、それが何を意味するかに、驚くほど無頓着な人が多い。



私の教会の人たちは、幸い、それ以上は言わなかった。

私がはっきり言い切ったのもあるし、信仰は個人のものだという認識がはっきりしている人が多い。


ただ、習慣で口にしたのだと思う。

誰かが洗礼を受けたら、きっとなんとなく言うことを。

意味など考えずに。



夫婦で信仰が同じである必要性を、私は感じない。

何も困らない。

私の心は私のもの、夫の心は夫のもの。


だからあと1回、誰かが私にそれを言ったら、私は教会に行くのをやめた。

夫の尊厳は私には大切で、私の大事なものを尊重しない場所に、私は行かないからだ。


教会に行かずとも、ジーザスにはついていける。

ジーザスと自分の関係の間には、教会は介在しない。

私はプロテスタントのクリスチャンだから。


いやなら、教会に通うのをやめりゃいいのだ。

簡単な話だ。

私が信仰しているのは、教会という建物や集団じゃない。


ジーザスが現すもの、それから、聖書だ。


神を礼拝するのは、教会でなくともできる。

ひとりでできる。


私は、教会は人の集まり、一緒に人を幸せにしたり、助けていくためのチームだと思っている。

だから、みんな仲良くした方がいい。

チームは仲良い方が生産性があがる。


ホーリースピリットは1人(ホーリースピリットを数える単位は何?)より、たくさんの方がいい。

大きな風を吹かせられるから。


だから人数は多い方がいい。



けれど、それは、あくまでも、自らの自由を保証された状態で、自分が加わりたいからそこに加わった人であるべきだと、私は思う。



「あなたのように、自分から洗礼してくださいって教会にやってくる人は、ほとんどいないのよ」と、教会の人たちは言った。


それなら、それが、神の意志だと、私は思う。


私は、人の尊厳と神の意志を尊重したい。