みんなの問題じゃなくて個人の問題なのに、自分の問題を社会問題として認識する時、起きること

すると、話が大きくなるので、個人のレベルでの解決が、より大変になる。


自分の問題は、そこに社会が絡んだとしても、まずは、個人の問題として考え、自分と自分の周りをどうにかしようとする方が早い。


結局は、自分個人の人生しか生きられないから。

そして、個人の人生に、一般論は役には立たないから。



個人の問題を解決するときは、日本の状況においては、まずは、社会については、その中にある問題点をあげつらうより、今すでに存在するリソースを先に探した方が早いと思う。


世界のどこでもそうではないので、これは、かなり恵まれた状態にあると思う。

個人の問題より、社会の問題の方が、生きるに大きく関わる国はたくさんある。

かつては、日本もそうだったと思う。



今みたいな時期は、歴史上、今だけだから、個人の人生の問題と社会を結びつけるのは、自然な思考として、誰の中にもありそうな気がする。


社会と個人は無関係じゃないし。


けれど、自分個人の問題を、社会問題として認識する必要がない問題も、たくさんある。

むしろ、社会問題として認識したことで、その解消が遅れたり、その問題から解放されなくなったりするケースも多々ある感じがする。



社会問題を解決したいという願いがあるなら話は別だが、そうでないなら、自分個人の問題は、社会問題にしない方がいい。


自分の人生上にある、自分自身、自分個人の話として、自分がする体験を捉えた方が、そこに個人のリソースや創造性を使いやすい。



社会問題にすると話の焦点が広がってしまう。


これは、家族というような小さな社会についても同じことで、家族問題を解決したい時は、まず、家族全体の問題として考えるのではなく、自分個人に的を絞って考えた方が早い。


ぶっちゃけ、自分にとって問題でなければ、問題のある家族は問題ではない。

問題と感じるかどうかは、その人次第だ。



問題解決が下手な人は、思考の中で、問題を広げて考えることが多い気がする。


世界や人生は、自分個人の認知を通してしか認識できない。


問題を解決していく時、たとえそれが、本当に社会問題だとしても、自分を中心にまずは、それを社会問題だと感じる自分に焦点をあてる方が早い。


社会には実体がない。

それは集合を現す抽象概念で、個人の感じ方によって、いくらでも姿を変える幻だ。