祖父の努力
私の祖父は、障害者だった。
杖がないと歩けなかった。
けれど、祖父は、私が知る誰より幸せそうな人だった。
今でも、祖父を抜いた人はいない。
あんなに幸せそうに生きる人を、私はいまだに見たことがない。
いつもにこにこ笑っていた。
祖父は誰にでも優しかった。
例外は蓬莱(551の豚まんでおなじみの中華料理やさん。ミナミの街にあるその店に、祖父に連れられてよく行った)の店員さん。
なぜかは知らないが、蓬莱の料理が出てくるのが遅い時だけ、祖父は店員さんにすごい勢いで怒った。
そして、だいたい出てくるのが遅いのは、私の頼んだ、かに玉だった。
(父が、祖父の死後、やはり、中華料理やさんで、料理が遅い!と怒ったことがあり、その時も、来ていないのは、私のかに玉だったので、私には、かに玉の呪いがかかっていると思った私は、以後、かに玉を頼んでいない。)
祖父の周りにいる人は、なぜだか、みな笑い出した。
その死に方も、お葬式まで、みなを大笑いさせて、そうして、祖父は去った。
ちょうど今頃、ずいぶん前の9月に。
私と妹は、いまだに、祖父が最後にくれた贈りもの、祖父のお葬式の話になると、転げ回って笑う。
私が生まれた時すでに、祖父の左手左足は完全に麻痺していた。
だから、私には、それが当たり前の状態で、私が祖父が障害者ということを理解したのは、数十年後のことだ。
祖父は、心臓も悪かったので、毎日、たくさんの薬を飲んでいた。
大きな発作を起こしたら、終わりだと父から聞いていた。
今考えると、昼寝しないと身体が持たなかったのだろう。
よく昼寝していた。
私たちも小さな頃は、よく一緒に昼寝した。
祖父とのお出かけは、祖父が通う病院へのお供のことが多かった。
祖父が点滴してもらうベッドに、私や妹も一緒に寝転がって昼寝したり、祖父が受けるリハビリの部屋で、祖父がリハビリしている間、私と妹は、リハビリの先生に、首をつる機械で首を引っ張られて、きゃあきゃあ言ったりしていた。
しょっちゅうついて行ったため、お医者さんや看護師さんとも顔見知りだった私と妹は、病院には遊びに行くのりだった。
ただし、祖父以外の老人は、みな難しい顔をしていたので怖かった。
ある時、私は、
「おじいちゃん、なんで、みんな怖い顔をしてんの?」と祖父に尋ねた。
祖父は、
「あれは、怖い顔ちゃう。
痛いんや。しんどいんや」と言った。
「しんどいお顔?」と私は聞き返した。
「そうや、そやから、怖くはないんや。みんな、ほんまは笑いたいんや。ただ、痛いし、しんどいだけなんやで」と祖父は言った。
私は、ふうんと思った。
そして、おじいちゃんは痛くなくて、しんどくなくてよかったね、と思った。
違う、と、さっき、急に思った。
おじいちゃんは、怒らないようにしていたのだと気がついた。
心臓が悪かったから。
痛みやしんどさに、怒れなかったのだと。
それは、命の終わりを意味するから。
祖父は、笑いながら生きることを選択したのだと思った。
私は、おじいちゃん、むっちゃ努力したんやなと思った。
許す努力。
理不尽さを、痛みを、人を。
蓬莱の店員さん以外の全てを許し、笑い、生きる努力。
それでも、許せなかった、蓬莱の店員さん。。。
命の危険を顧みず、私のかに玉のために怒ってくれてありがとうと思った。
私の身体に痛みはない。
私には、祖父より簡単な努力だ、やれる、と、私は思った。
火力発電所もできたしね。