思い

 人生において何よりも尊いものは、誰かの思いではなく、その人自身の思い。


私であれば、私の思い。自分の思い。


当たり前でしょ?なようだが、なかなかそうでもない。

特に、宗教や思想がからむと、そうじゃなかったりする。


あとは、共感が流行りすぎたせいで、自分じゃない誰かの思いばかり考えている人も、前より増えてるかもしれない。

誰かに寄り添うあまりに、自分に寄り添わないというか。



さて。


例えば、少し前までの同じ教会のおっちゃんUさんなどは、神さまの思いが、その人生の中で最も尊いものだった。

いつもいつも、神さまの思いを考えていた。


じゃ、あなたの思いは誰が考えてくれるの?と、私は思った。


神さまの思いを考えていたいその気持ちの奥にあるものは、ただの現実逃避か人生の責任放棄にしか、私には感じられなかった。

なぜならば、おっちゃんUさんの人生で、神さまの思いがカタチになる気配がなかったからだ。


実はそれは、過去、私が、クリスチャンになる前に、クリスチャンになる意味はないと思っていた理由の一つでもある。

自分がなりたくなかったのもあると思うが、なんのために、わざわざクリスチャンになるのか、はたからみている限りは、さっぱりわからなかった。


私が見た誰よりも、自分の方が幸せそうだったからだ。

私の目に入っていた人は文句も多いし、チャリティに熱心なわけでもないし、救われてる人には見えなかった。

私は、一般常識程度には聖書を知っていたけれど、クリスチャンの人が取り立てて人によくしているようにも見えなかった。


そこには魂が救われているという思い込みが生む自己満足という効果しかないように見えた。


罪の赦しというのは、キリスト教の大トピックだが、それに関しては、自己受容と自己肯定に関わる話に思え、別に神さまじゃなくてもできるよ、と、思った。

人を殺したとかじゃなければ、神さまに頼らない方が早いかもしれないなと思っていた。


(これは、今も思う。原罪は神さま赦してくれるかもしれないが、人の人生を苦しめることが多いのは、自分が自分を許せないことの方が多い気がする。

原罪ではない、自分自身が自分に課した罪や価値の低さは、信仰では救えないというのが、私の結論だ。

サポートにはなるかもしれないけれど、根っこは自己、ようするに、自分。原罪は、別の話だと思う。)


ともかく、自分がなりたくなかったので、そういう人ばかりが目に入ったのだと思う。


最後にアメリカで出会った友達を見てから、少し考えは変わった。

彼女は自分が思うクリスチャンぽかったからだ。

つまり、現実が伴っていた。



さて、一年経ってみて、私には、そこに魂が救われているという思い込みが生む自己満足という効果はなかった。


私が神さまの思いを考える時間は、私の人生には生まれなかった。

お願いごとをする時間はできた。

これは一般的にはお祈りという。



私に生まれたのは、もっと体感的で、もっと鮮やかな人生の体験だった。

すみません、それは、礼拝じゃない。

日曜日の礼拝は、私にとっては、なんかレクリエーションみたいな感じ。

私は歌い読みお祈りし、絵を描き、おしゃべりする。


礼拝は最優先事項ではない。

仕事や家族が優先のままだ。

それでひどい目にはあっていない。

ジーザスが怒る感じもしない。

そりゃそう。

教会がない地域にもクリスチャンはいるからねえ。



鮮やか体験とは。


私は、私という存在が思うこと、私という存在が生み出すもの、私の特徴の中で人のために使えるものを、それまでよりも、私はまじめに考えはじめた。


そして胸がポカポカ温かい。



なるほど、神さまと一緒に生きるとはこういうことかと思った。


胸の温かい自分がいるということ。

自前のカイロがあるみたいな感じ。


そして、私の思いが現実になるように、最大限に協力してくれる。

それが私の神さま。


なぜならば、全ての思いは、神さまが与えたことになっているからだ。

聖書によれば、つまり、私の思いが、神さまの思いだ。


それは、現実化できる思いだ。

現実化できないこと、目に見えないままのものは、神さまが勝手にやるだろう。


なんだ、結局、キリスト教においても、人生において尊いものは、その人自身の思いじゃないかと、私は思った。



ようは、ホーリースピリットは便利だし、いいことばっかりだった。

神さまは、私の周りの人にも親切にしてくれるし。


別に仏教徒にも親切よ。


それが、私の思いだからかもしれないけど。