モデルとビジョン

思うに、私は、自分の働き方モデル(ひな形)を20年くらいかけて模索し続けてきた気がする。
ちょうどあと半分、私の社会人生活は残っている。

いかに社会の中に根を下ろし、適応していくか。
発達障害だった子供が大人になった後。
いかに自分の個性をいかしていくか。


幼い頃の私が、今でいう多動性の発達障害の子供の行動やものの感じ方に非常によく似ていることに、私は大人になった後に気がついた。
母が、私にした「しつけ」は、徹底的に行動を叩きこむもので、ずいぶん後からそれは、知能には問題ない発達障害の子供への教育として取られている方法と似ていることを知った。
母は、私と妹が、よその子供と子育ての本に登場する子供たちとあまりに違うことに、若い頃、悩み続けたことを、私が35歳すぎた頃から話すようになった。
今なら、きっともっと楽に子育てができたと思うわ、と母は言った。
あまりにも情報がなかったと母は言った。
ただ、私の娘たちは、単なる変わった子供たちだったと。

母は、私たちにどのように伝えれば、私たちが「普通」にできるかを、一生懸命、自分で考えたと言っていた。
今ならやらなかったかも、とも。

私が、社会にそれでもなんとなく適応できているのは、母のほとんど虐待かと思われるようなトレーニングのおかげではないかと思う。
母が、私に行動で叩きこんだ、人への頭の下げ方と感謝の伝え方が、特に大きいような気がしている。


私は、非常にバランスが悪く、できることはできるが、できないことはできない。


いとこの子供が、発達障害だと診断された。
その子供は、私の小さな頃とそっくりだと両親は笑っていい、いとこ夫婦に大丈夫だ、がんばりなさい、と言った。


亡くなった祖母の家を片付けていた時、父の通知表を見つけた私は、その通信欄を読んで、おまえか!と声を出した。
そして、遺伝か、、、と笑った。

私が小さな頃、父は私のよき理解者で、私に優しかったがその理由が、その時わかった。
忘れものがひどい、片付けができない、人の気持ちがわからない、じっとできない(私はおしゃべりが止まらないという出方だったが)、それらが父にはよく理解でき、そして、心配しなくていいことがわかっていたのだと。



父は、会社を一年で辞めた若い私に言った。

おまえは、人よりいろんなことができないから、リーダーでいる自分を受け入れるしかないよ。
逃げても追いかけてくるで。
そういうもんや。
リーダーじゃない人はな、できることがあるんや。
才能がある。
リーダーは、何にも秀でたものがない人がやるのでちょうどいいんや。
ただ、リーダーのポジションに立っていられるという気質と、コミュニケーション能力の高さ、勘の良さだけが、君が持つものや。
そんなんは才能とは違うけどな、リーダーにはそれは必要や。


父の遺言は、ギャンブルに関わるもので他にはないが、彼はまともなことは普段さらっという。
大事なことは、ギャンブルに関わることの方らしいが。


で、私は気がついたが、私の周りには似たような人が多い。
サラリーマンも、フリーランスも、自営業者も、経営者も。

人知れず、ひたすら苦しみぬいてきたような人たちは、40すぎて、一気に楽になっているように見える。

モデルなきモデルを、自ら模索するのには、20年くらいかかるのかもしれない。


今、私がいえるのは、そうね。。。

あと20年ある、さて、ここからだ、ということだろうか。
今、子供時代をあっぷあっぷ必死に生き延びるたくさんの小さな仲間たちも、やがて大人になる。

がんばれ、がんばれ、早く大人になるまで、と私は思う。
がんばれ。
とりあえず、大人になるまで。
お父さんやお母さんと一緒にがんばれ。

さて、ここからだ。


リソースを20年かけて集めた。
主に信頼できる人達だ。
自分を理解してくれ、自らのその才能を社会のために使うことを惜しまない人たち。
それから、知恵。技術。
家族。


自分の問題は、全て先に片付けた。
もうない。


20代の私が、クリーンランゲージのセッションとシンボリックモデリングのセッションがあったら、10年短縮できた気もするが、まあ、いい。


さて、ビジョンを全て、形にしよう。