蘇る記憶への期待

ここしばらく、「ゆかりちゃん」の話を書いているが、これもヨガの影響じゃないだろうかと、今朝、ふと思った。

体と呼吸を使うことで、私の中の記憶がアクティベイトされ、整理され、リソース化していっている気がする。
全ては書ききれない量だ。
昔を懐かしむとかそういう余裕はない。
それには量が多くて、「見てる」が正解のような気がする。


情景が細かなところまで浮かぶのだ。
全てが事実だったかどうかは、もはや確認のしようはないが、これまで思い出さなかったような小さなこと。
例えば、建物の作り、周囲にいた人、目にしたもの、手にしていたものと言った直接感情に影響しなかったけれど見た景色や聞いた話が浮かぶのだ。
枝葉の数々。

たくさんのことを記憶していたんだなとやや驚いている。

テレビで、ヨガは頭が賢くなると言っていたが、脳の長期記憶の領域と、創造力に関係する領域に刺激を与えるのかもしれないなと思った。


と同時に、それらの置き去りにされてきた記憶が自分の中に統合されていっている気がしている。
思い出すのはどれも、活発で負けん気が強いたくましい「ゆかりちゃん」だ。
比較的愉快に人生を生きている。

ゆかりちゃんが抱えていた家庭の事情を、私はよく知っているが、小さなゆかりちゃんは事情を理解していないということもわかった。
事情がわからなかったので、ゆかりちゃんは辛い思いを時々したのだ。
子供は理解するのは難しかっただろう。

ゆかりちゃん自身も、ゆかりちゃんの扱い方がよくわからなかった。
自分の扱い方について考えるのは大人がやることで、小さなゆかりちゃんは、ただ生きて体験しただけだ。


それでも、新しく付加情報を伴うゆかりちゃんの記憶は、深く考えずに、様々にやりたいように動いては、泣いたり失敗したり笑ったりしている軽やかな記憶で、いたくヘルシーだ。

時間をかけたインナーチャイルドの癒しは完璧な仕上がりだということも確認できた。



そして、私は期待しはじめた。

記憶領域。

さあ、、、、ヨガよ。
というか、私の体よ。

早く、覚えたはずの英単語の領域に到達してくれと。。。

大学時代の後半、私は英語のペーパーバックを時折読んでいた。
原著があるものは、その方が面白いとか気がついたからだ。
日本語は美しいけれど、雰囲気が柔らかくなってしまい、ものによっては、スリリングさやスピード感が消えてしまうと感じたのだ。

読めたのだ。

さあ、、、そこまで早く。。。


昨日、ゆかりちゃんは7歳だった。

ゆかりちゃんの健やかで速やかな成長に期待しよう。
早く20歳に。

小さなゆかりちゃんはしょっちゅう「早く大人になりたいな」と思っていたのを、私は知っているから、そうは時間はかかるまい。