しょせん子供は子供である。置き土産
だからさ。
まじめにやろうとしても、うまくはいかないよ。
「ゆかり」の特徴をよく考えて。
それからさ、何を思い出したかに気がついて。
どんな場面を思い出したかに気がついて。
小さいゆかりちゃんのデータが溢れかえった後、小さいゆかりちゃん達5人くらいが私の前に並んで、そう言った気がした。
私に溢れかえった記憶は、今、自分がしている仕事ややっていることと結びつく記憶ばかりだった。
なぜ、自分は、祝いごとのイベントを仕事に選んだか。
なぜ、自分は、他人の相談を聞いているか。
なぜ、自分は、書くのか。
小さいゆかりちゃんが体験の中から学んだ、周囲の大人達がそのしていることで教えてくれた、楽しいこと、人の役に立つこと、私はただそれをなぞってきただけだと気がついた。
仕事について、ほとんどの場合、何をやるかは私に迷いはない。
それがだれかの役に立つかは考えない。
役に立たない仕事など存在しないと考えているからだが、もっと深い理由は、小さいゆかりちゃんの役に立ったことを私がなぞっているからだと気がついた。
役に立つ、と、小さいゆかりちゃんが知っていたこと。
小さいゆかりちゃんの人生の役に立ったこと。
小さいゆかりちゃんが好きだったこと、助けられたこと。
その中で、大人や自分より大きい人がしていたこと。
小さいゆかりちゃん自身が考えた未来は、いつも「早く大人になりたい」だった。
もう少し先で、やや大人に近づいた私は、仕事について考え始めるが、未来でやりたいことは浮かばなかった。
「早く自立したい」が主たる未来への望みだった。
仕事は手段でしかなかった。
今日やりたいことはいつでもあった。
今やりたいこと。
並んだ小さいゆかりちゃん達は、ここからのヒントを見せた。
どのように、何を、すればいいのか。
私の原点がそこにあった。
そして、今の自分も、原点からずれていないことを教えた。
道に迷っていたような時期もあるけれど、迷ってはいなかったこともわかった。
そこに行かないと手に入らないものを拾いに行っただけだ。
小さいゆかりちゃんは見せた。
全くなにものにもコーティングされていない自分は、どのような状態だったのか。
そして、自分がまじめにやろうとするとき、物事がうまく運ばない理由にも気がついた。
私は、まじめにやるのが上手じゃないからだ、と。
まじめなふりはできる。
しかし、それは全力の状態じゃない。
まじめに見せるために、余計な力を使わねばならない。
小さいゆかりちゃんと私の最大の違いは、私は大人で、小さいゆかりちゃんよりももっとたくさんの失敗をし、そこから学んだ知恵を持っているということだ。
やりたいようにしても、望みは叶わないことを、大人の私は知っている。
望みを叶えるための方法のバリエーションを、大人の私は持っているし、また、その方法は毎回生み出していけること、または生み出す必要があることを知っている。
自分の望みを叶えるために、自分だけのことを考えて必死にならなくていいことを知っている。
自分のことは考える、しかし、自分だけのことは考えない。
小さいゆかりちゃんには理解できなかった人と人との繋がりや、絡み合うものごと。
自分以外も人間なのだということ。
だが、同時に、自分がやりたいようにやるしかないということを、小さいゆかりちゃん達を眺めた後、気がついた。
私はそうでなければ幸せや生きている感じを感じない。
なぜならば、私は、小さいゆかりちゃんが大人になった人だから。
真ん中にあるものは、幸せを感じることを教える。
目がキラキラすることを教える。
同時に、私は、自分が習慣を持つ人だということに気がついた。
幼い頃から続いていて、今も続いているいくつかの習慣がある。
割と小さな時期に、心をなだめたり、整えたりする方法に出会っていたこと。
それが、自分を助けてきたこと。
そして、私が、それらに思いをはせると、小さいゆかりちゃん達は、得意げににやりと笑い、ふっと消えた。
あとに残った私は、え?20歳までやらへんのか?!
英単語、、、と心で呟いたが、は、と思いだした。
小さいゆかりちゃん記憶領域には、英単語はない、、、、と。
小さいゆかりちゃんたちが話していたのはスペイン語で、彼女にとっての外国語はスペイン語だ。
そして、彼女たちが知っているのは、言葉がわからなくてもなんとかなること、だ。
なおかつ、小さいゆかりちゃんは、あまり勉強しなくても、一度見たり聞いたりすると、すぐ覚えた。
記憶力がよかった。
だから、小さいゆかりちゃんは、ものを覚える方法は知らない。
小さいゆかりちゃんは、困ったことがないからだ。
しょせん子供は子供である。
役には立つが、役には立たない。笑