頭の中が20歳の話

人を見るとき、その人ひとりを見るようにしている。

当たり前じゃないかと?
うんとね、このその人ひとり、は、その人だけ。

肩書き、人種、国籍、ジェンダー、仕事、そういうのを見ない。
目の前にいるその人ひとりだけを見る。

これは仕事でもプライベートでも同じだ。

若い頃は、正直な話、私は肩書きの偉さがあまりよく理解できなくて、だって人間でしょ?としか思えなかったので、そうだった。
人によって態度をあまり変えないようにしていた。
(それは我が実家の方針でもあった。誰にでもよくしなさい、が母の教え。)
目上の人に丁寧に喋るとかそれくらいはしたのだが、誰もを人間として見るようにしていた。
そうして見ると、ペーペーの人と社長に、なんの違いがあるのかが私にはわからなかった。
人の肩書きにもあまり興味はなかったが、それで困ったことは、・・・・実はなかった。
むしろ、偉い人は可愛がってくれることが多かった。
(態度がでかいとは時々言われたが、本気で言ってる人はいなかった。)

自分に肩書きがついたあと、いやあ、世の中ってこういうもんか!と思った。
肩書きが立派になっていくと、人の態度が変わり始めた。
仕事はやりやすくなった。
こりゃ、便利、と思った。

組織の中での肩書き=便利。

と同時に、誰が自分のことを人間として見ていて、誰が自分を肩書きとして見ているか、非常に見分けやすくなった。
人によって態度を変えることは、以降もしなかったが、誰が自分を肩書きで見ていて、誰が見ていないかは、インプットし続けた。
肩書きで自分を見ている人とは、未来の広がりはない、と考えたからだ。
(で、これは当たっていた)

その頃、どうして、私の(でかいと言われた)態度が、偉い人たちから不興を買わなかったかを私は理解した。
みんな、肩書きとして見られることが多くて、人間としてその人を見る人が、偉くなればなるほど少なくなるんだね・・・と。

同時に、自分が肩書きで見られることを好む人もたくさんいることに気がついた。
これは、すごく偉い立場の人にはいなかった。
今もってお会いしたことがない。
中途半端なポジションの人ほど、多かった。
ちょっと偉い人。
そういう人は、人間として扱われるのではなく、偉い人として扱われることを好むことを発見したので、そうするようにした。

肩書きとの付き合い方は、人それぞれである・・・と思った。


フリーランスになったとき、自分のやり方は正解だったと思った。
肩書きで人と付き合わなかったことで、会社の看板が外れても、人と人としてのつながりが残ったからだ。
肩書きがなくなった私に態度を変えた人は、ほとんどいなかった。

そして、以降は、人と人とのつながりだけが仕事を生んだからだ。

ひとりずつ見るのは、とってもめんどくさい。
人を人間として扱うのは、とってもめんどくさい。

でも、その規模でできる仕事でいいと思うんだな、私個人がやっていくのは・・・・、とひとりで仕事をしていく中で何度か思った。

人間は、面白いから。


それで、結局、今も、一応肩書きはあるけど、この肩書きはなんぼのもんじゃろかというような肩書きで仕事を続けているが、幸せだな・・・と思うのは、「お会いしたい」と言ってくれる方々が現れることで、自分を見られて仕事を判断されること。

ひとりずつ、ひとりずつ。

そして、やがて、ひとりはすごい数の人数になる。
でも、ひとりずつ。

というような話をしていたら、ある人から「頭の中が20歳」と笑われた。
そして、思い出した。
実家の母は、私を20歳だと思って、普段話をしていると言っていたのを。

私を20歳だと思うと、私のいうことはとてもよく理解できるのだそうだ。
というわけで、20歳だと思って読んでください(笑