喜ばない自由

最近、うれしいなと思うことがある。

自分は、自分がしたいように普通にしているだけだけれど、相手が非常に喜ぶことがあることだ。
私は、相手を喜ばせようとは意図していない。
自分がやりたいからそれをしていたり、言いたいからそれを発言したりしているだけだ。

不思議な感じがする。

なぜなら、私は、若い頃、人を喜ばせたいと思って、うまくいかないことが多々あった。
私はいろいろ工夫してみたけれど、思ったような結果が得られない、つまり、相手の反応が芳しくないことが多々あった。


今、普通にしていて、人が喜んでくれることがあるのを見たら、若い私はびっくりするに違いない。
そして、きっと尋ねてくるだろう。
彼女は知りたがりだ。

どうして?何が違うの?


私は彼女に教えてあげるだろう。

喜ぶか喜ばないかは相手の自由だ。
若いあなたの最大の間違いは、相手の反応を期待したことだ。
どのように好意的な意図を持っていたとしても、相手の感情を思うようにしたいと考えるのは、相手をコントロールしたいというあなたの欲求の現れだ。
人は、あなたのために喜ぶのではない。
喜びたいから喜ぶのであって、あなたはただ、あなたが相手のためにあなたがしたいと望むこと、自分がそれをすること、それを言うことに喜びを感じることをすればいい。

あなたがあなたを喜ばせることが、相手を喜ばせることに繋がるから。
喜びに喜びは共鳴する。

たとえ相手が喜ばなかったとしても、少なくとも、あなたは喜びの中にいる。
自分を喜ばせられることを、あなたはまず覚える必要がある。


自分が幸せな中で、自分が喜びを感じる中で、人が喜んだり、人が幸せになったりするのを見る。

喜びや幸せを感じる心は、いつでも自発的なものであって、その自発性を尊重できるようになること、それが、あなたがここから学ぶことだ。

20年かけて、あなたはそれを学ぶ。

時間をかけたかいがあったと、いつかあなたは感じる。
大丈夫だ。


うまくいかないなあ、、、と悩み努力し、失敗続けなさい。
それらの失敗がなければ、未来のあなたはいない。

やがて、あれ?という日が来るから。


若い私はきっと言う。
そうは言うけど、みんな幸せな方がいいじゃない。

私は答える。

それもまた自由だ。


若い私は、きっと、はあ?と不満げな顔をして、よくわからないな、、、と言うかもしれない。

いつか、わかる。