体をかゆくする望み

小さいゆかりちゃん御一行様が去った翌日。

目が覚めて思った。
人を支える大人でいたい。
人を育む大人でいたい。
人を笑顔にする大人でいたい。
楽しんでそれが続けられる大人でいたい。


おそらく、小さなゆかりちゃんの中で生まれたけれど、小さいゆかりちゃんには難しくて言語化できなかった望みだろう。
小さいゆかりちゃんは、大人になるまでに、そして小さくなくなった後も、そういう大人になんども助けられている。

それらの人は特別な場所にいたわけではなく、家の前や幼稚園、学校、病院、バスの中、どこにでもいた。
必ずしも、それらの人は職業としてそれを行なっていたわけでもない。


この起きたことは非常に珍しいパターンだ。
すでに叶っているはずのこと、すでにしていることが、望みとして意識化された。
いわば、私の行動を支配してきた隠れた望みだ。

表だって願ったことはない。
今も、この望みは、体がかゆい気がする。
(だから、ここまで意識化しなかったのだろうが)

隠れた問題も行動を支配するが、また同じように、隠れた望みも行動を支配する。
この場合、問題と望みに大した違いはない。
まあ、問題は、潜在した問題のさらに奥にさらに潜在した望みがある場合もあるけれど。



そして、私は、自分は望みの最後の一文のための悪戦苦闘を長い間続けてきたのだと知った。
この最後の一文は、大人になってから生まれた望みだろう。
続けるのがしんどい人が願いそうなことだ。


楽しんでそれが続けられる大人でいたい。


どうやれば、それを楽しみながら続けられるか、そのための環境やリソースを整えるための悪戦苦闘。

つまり、続けたい、と願っていたということ。
私が、今している仕事は、10年前、メインの仕事が生んだ状況の副産物として、すでに勉強していたこと、すでにできたことをせざるを得なくなったという理由ではじめたものだ。

そういうわけで、自分の仕事は好きだが執着していないと思ってきたが、意外に執着しているようだ。

意外。


で、もうひとつ。

望みは言語化せずとも、体を動かしているということと、それでも、言語化した方がいいと私は思う。

なぜならば、望みが叶っているという満足感が得られるから。
なぜなら、頭で理解した方が、より工夫ができるから。
より、能動的に行動できるから。


ちなみに、ここでいう望みは、潜在した問題を抱えない。
純粋に、そうしたい、それが欲しい、それが見たい、そうありたい、そんな感じ。


そして、自分の望みが自分の体をかゆくする不思議な経験。
意外と私はいい人なんじゃないだろうか?と、体がかゆい。

そんな朝。