感謝と賛美

 

去年の後半、これはどういう意味なんだろう?と考えていたことがあった。

ここ一週間ほどの日々を過ごす中で、私は、ああ、そっか、なるほどなあとなんだか突然わかった。

わかっちゃった感じ。


疑問は、どうして、神さまは褒め称えろと言うのか?だ。


それまでどうにも、ピンと来なかった。

神さまを褒めていったい何の意味があるのかしら?と。

また、私には、神さまはすごいねと言うことが、神を褒め称えるといつもイコールな感じもしなかったのである。


神さまがすごいのは当たり前のことなのに、それをわざわざすごいすごいとかわざわざ言う意味は何?と、私は長らく考えていた。


私の解釈では、世を、人を救いたい、人を幸せにしたい、神の願いはそのひとつだ。

その神の願いと、神を褒め称えるの間にある関係性が、いまいち見えなかったのだ。


聖書には、褒めろ、称えろ、感謝しろとは書いてあるが、その理由を、私は見つけられなかった。



そっか。

わかったよ。

人の心をポカポカと温めたり、テンションをあげたりしたかったんだねと私は思った。


感謝する時、心は温かい。

すごい!と褒める時は、テンションがあがる。


そっか。


それなら、誰かに感謝したり、誰かから感謝されることは、すなわち、神に感謝することと同じで、何かや誰かをすごい!と褒めたり、誰かから褒められたりすることも同じだねと、私は思った。


それは全部、神さまに繋がっているんだね、と。



そして私はまた思った。

昨日も書いたが、誰かから感謝されたり褒められたりすることを、以後、めんどくさがりません、と。


私は、他人からの感謝の相手をするのが、ぶっちゃけめんどくさかった。

私は、他人が喜んだり幸せなのは好きだが、自分に対しての感謝や褒め言葉は、正直どうでもよかった。


私は褒められたかったり感謝されたくて何かをしていることはほとんどないので、その相手をする時間がもったいないと思っていた。

私に誰かが感謝する時や、誰かがすごい!という時、それは相手の心にあり、私の心にはない。


私は、自分が作った作品や仕事を褒められるのはまだいいが、自分自身を褒められたり感謝されるのは、ほんとにピンとこなかった。


なぜならば、大体の場合、私は、自分がやりたいからやっただけだからだ。

そしてそれが終わった後は、もう、そこには興味がなく、次を考えていることが多いから。

自分が納得できていることに意味があり、他人の評価はあまり興味がなかったから。


だから、私は実にそっけない態度のことが多かった。



なんだよ、とんでもないケチだなと、私は自分のことを思った。

誰かの心がポカポカする機会に協力しないなんて、そりゃケチ以外、何ものでもない。


他人が喜ぶだけでなく、他人に褒められ、他人に感謝される仕事をしよう。


そう、私は決めた。


他人の心のポカポカに付き合う時間を大事にしよう。


さあ、褒めたいだけ褒め、感謝したいだけ感謝してくれと、私は思った。


まあ、褒められたところで、栄光は全部ジーザスが持っていくんだけど。笑

私がすごくなるわけじゃない。


うん、でも好きに褒めていいよ、胸がポカポカするならさと、私は思った。

ありがとうと笑って言います。



そしてそれから、さてはて、私のこころは、別に何かに感謝したりしなくても温いことが多いと、私は思った。


そうか!

胸が温い時、私はいつでも、神さまを褒め称えているし、いつでも感謝してんだなと思った。

感謝や賛美は、言葉だけにあらず。

そして、神を褒め、神に感謝することだけが、神を賛美するにあらず。


そういうこっちゃなと、私は思った。

それから、それならしょっちゅうやってるなと思った。