今はほっとけ。後でやろう。
以下の文章について、私は本日一日、いろいろやりながら考えている。
「地面を歩くから、石ころや壁がある。
空を飛べば、石ころや壁はない。
だったら空を飛べばいい。」
しかし、私の背中には、飛ぶための羽根が一枚しかなく、一枚足りない。
ついてる羽根は天使からもらったが、もう一枚は自分で作らないといけないらしい。
それが、現在の私の課題。
考えれば、以前は、魔法の箒やら気球やらに乗ってみたりなんだりして、空を飛ぶ例えを使っていた。
私はようやく助けを借りずに、自分自身で飛ぶ気になったということか?
セッション中、英語が、日本語が、と、ぶつぶつ言っていたので、話は、ここ数年学び続けたことと関係しているのだろうが。
興味深いのは、このセッションは、そもそも、「人々が希望を無くしていくのを見るのが辛い。人の希望で居続けるためにもっと強くなりたい」というアウトカム(希望)がお題で始まったセッションだ。
学んだこととは違うところ。
こういう時、私はいつも感じるのだが、自分自身というものは、利用できるものは何でも利用してこようとする。
違う痛みを利用して、別のことに取り組ませようとする。
もっと大きな願いに関わること。
痛みより、願いは、パワフルだ。
まるで、いい、いい、その痛みはどうってことないから、胸痛めてなさい、ほら、他にもっと大事なことがあるでしょう?と、私が私に言っているようだ。
胸は痛むが、死にはせん。
胸が痛んでも、あなた、笑い続けていたでしょう?
他のことを考えるのに時間は使ってよ。
胸が痛いなんて、どうでもいいのよ。
痛いなあと思っときなさい。
痛くても笑えるのだから。
傷はほっとけ、後でやろう。
今はもっと大事なことがある。
痛みであなたはどうもならない。
ただ痛いだけ。
まあ、そういうことだろう。