年末てんやわんやの結末
昨日、二つのニュースが、ほぼ同時に目と耳に入った。
年末てんやわんやの叔父が、ウイルスの数値と肺の状態が急激に改善しはじめ、来週退院できるかもしれないと医師から言われたのがひとつ。
もう一つは、医療崩壊したある都市で、その都市の全ての病院が満床になり、加えて酸素が足りなくなってきたため酸素吸入器を酸素飽和度90を切る人しか使ってはいけないという使用制限と、救急搬送の制限が始まっていることだった。
詳しくはAFPが報じている。
どちらも病院の力を示すニュース。
叔父は結局、医師や家族に、人工呼吸器を使えと怒られまくったが、その使用をがんとして拒否した。
死にそうになったらしいが、死にはせず、ウイルスが増え続け、白血球が減り倒し、そしてある夜ピークを迎えた後、快方に向かっている。
発症後10日経過したので、もう人にはうつさないと医師から言われ、ほっとしたらしい。
しかし叔父は、酸素吸入器を使い、薬を使い、医師や看護士に助けられている。
病院の力だ。
個人として考える時、使える病床数は関係ないのだと、私は気がついた。
いくら増やそうが同じなのだと。
ならば、病床を増やさずに済む数に、ピークを分散させながらやり過ごせるように、協力した方が賢いなと。
個人として考えるなら、流行病に限らず、病院を必要とした時、自分が入院できるかどうか、家族が入院できるかどうかが全てだ。
ちなみに日本では血液が足りなくなってきている。
献血にどうぞ。
社会を守るために我慢や予防をしている人の対策はどうしても甘くなる。
自分の体力に自信があれば、なおさらだ。
初詣にわざわざ人ごみに出かけた人も、オリンピックの実験だろう駅伝の観戦にわざわざ付き合った人も、体力には自信のある人だろう。
パーティーを開く半端な富裕層は、お金でなんとか解決できると思っているからだろう。
(半端な富裕層、というのは、ほんとの世界の富裕層は昨年の春の間に、この冬籠って過ごすための場所や人員を手配していて、今は人の少ないリゾートで、流行病とは無縁の生活をしているからだ。この冬がこうなことは、想像できたことだから。)
満床、は、病床がないという意味だ。
お金でも買える病床がなくなるという意味だ。
自分のこと、家族のこととして、こういう時は考える必要がある。
自分や家族を守ること。
そして、希望的観測で、現実を見ないこと。
とても大事だと思う。
希望は未来と心に。
今を希望的観測で測ると、非常時はえらい目にあう。
それは、希望的観測で戦況を判断し続けて、死なせなくていい人をバカすか死なせた過去の私達の国が教えてくれている。
明日は感染者が減るかもしれない。
これくらいは大丈夫かもしれない。
明日も減らないし、大丈夫でもない。
時期が来るまで、収まらない。
そんな遠い時期ではないだろうけれど、来月とかではない。
オリンピックを開催されたら、きっと、次の冬はさらに地獄を見る。
計画を見ると、次の冬、まだ日本全体ににワクチンは行き渡っていない。
(だから、私は、まだ今がひどい方が政府がオリンピックを諦めるからましと思っている。大本営体質から、21世紀に時を進めることができたなら。)
また昭和21年からやり直すのはごめんだ。
今はまだギリギリ、みなに体力が残っている。
けれど、次の冬、どれだけの中小企業が持ち堪えられるだろう?
この国は借金は多いが潰れないでこれた理由であるはずの政府が発行する国債の総額が、次の冬は、国民の総貯金を超えるのではないか?
次の冬にはワクチンはあるだろうが、今、医療崩壊した都市は、ワクチンを持っていてその接種がすでに開始されたとニュースで報じられていた国だ。
腹をくくって現実を受け入れ、自分のこととして考える必要がある。
人ごみにいた人たちは、マスクはつけていた。
けれど、市民が普通に使うマスクは、医療従事者が使うマスクとは違う。
私たちがつけているのは感染しないためのマスクではなく、広げないためのマスクだ。
人ごみOKのマスクを、私たちはつけていない。
うつらないためのマスクじゃない、マスクしていてもうつる。
そして、次の冬も、ほとんどの人はまだ生きてる。
大手は完全リモートでいける体制を組み始めている。
それが何を意味するかに気づいた方がいい。
すぐ終わると判断しているなら、そこまで投資はしない。
見たくない現実を生み出すために、手を貸すなと、私は思う。
現実逃避と希望的観測は希望を遠ざける。