人でなし、言い換えると、ドライ
なんというか。
私は、綺麗綺麗な世界を待ち望むより、ごっちゃごちゃごちゃで汚いものもいっぱいある世界を、面白がって笑いながらいく方が、現実的だと思う。
個人の人生においては。
そして、私の基本スタンスはそうなので、対人間については、まあ、あんまり問題なく生きている。
笑いのネタにしちゃうから。
ひどけりゃひどいほど、なんじゃそりゃと笑いになる。
私は、人の個人的不幸には、あまり胸は痛まない。
自分が手助けできればするので、ほったらかすという意味ではなく笑い飛ばしてばかりでもないが、基本、ひどい目にあったそのものについては、笑っていて、人でなしっぷりを発揮している。
笑えば、俯瞰できるからね。
落ち込むと、酷い目から浮上する力が失われてしまうから。
胸を痛めても、それは自分の内側の話で、相手の役には立たない。
だから、人でなしらしく、キャキャキャキャ笑っておけばいいのである。
ところが、そうわかっていても、それでは無理なことがあると、私は昨年気がついた。
笑いとばせないジャンルの酷い目を、私は多々目撃することになったのである。
世の多くの人と一緒に。
自分に起きたそれは、酷い目ではなかった。
私は、アンネ・フランクに申し訳ないくらいの温かで幸せな隔離を体験した。
昨年末、身内に起きたそれも、酷い目と私は思わず、割にラッキーなパターンだと思ったので、ゲラゲラ笑っていたが、私以外は精神的に大ダメージを負って、まだ立ち直っていない。
ちなみに、私は、人が死ぬことをひどいこと、悪いことと思っていない。
死そのものには、心は動かない。
生きている人の心を、私は気にする。
自分がなるのが一番いいが、1人で話はすまないものね、と、私は思った。
酷い目がひとつしかないならば、死がひとつしかないたらば、どうか私にくださいとお願いする。
私は多分、その酷い目は平気だからだ。
怒ったり笑ったり泣いたりするが、傷は残らないと思う。
死も平気だ。(これはその先の世界に興味があるから。人生最後の楽しみにおいてある。)
そして、傷つくことが問題なのではない。
傷を体に刻みこむことが問題なのだ。
しかし、この場合、この酷い目は、ありとあらゆる場所で起きるのだから、1人では無理だ。
そして、どうやっても目に入るそれに、私の胸は痛んでいたらしい。
知らなかったけど。
年が明けて、私は、最近、割り切った。
ここまでくればもう、各個人の話だ、と。
つまり、私の目の前にその個人が現れた時、自分は何をサポートできるかを考えればいいのであって、それ以外は、どうしようもないと割り切った。
祈りはとっくに捧げてあるから、祈りようもない。
私は、神さまは、しつこく祈らなくても、一度で耳を貸すと思っているので、同じことは何度も祈らない。
人間じゃないから。
人間相手には、聞いて欲しいことを相手が聞いてないと思えばしつこく同じことを言うけれど。
寄付もできるだけは、とっくにした。
自分は感染を広げないように、最大限の配慮もしてる。
つまり、今はもう他にどうしようもないわよ、と、ようやく私は思った。
胸を痛ませるのは、時間の無駄、と。
そして、目の前にできることが登場した時に考えようと決めた。
昨年末の身内のように。
向こうからやってきたときに。
特別な感情を持って、それを眺めるな、今までより、さらにごちゃごちゃしている、それが、新しい日常だ、と、私は受け入れた。
で、私は何をするか?
空気を読まずに、私の日常を過ごせばいいのである。
この世につらい思いをしている人、病に苦しむ人、理不尽な目にあっている人、貧困に苦しむ人、大事な人の死に悲しむ人、絶望している人がいなかった日は、人間誕生後、一日もないと推測する。
その人数が、少しでも減るように、人間はがんばり続けて、その最高の状態が今だ。
最高の状態だからこそ、これですんでる。
酷い状態に見えるものは、それでも、できうる最善の状態だ。
まずは、感謝を取り戻し、そして、日々を笑って暮らそう、今までどおり、と、私は思った。
胸を痛めるのは、無駄、と、よくよく自分に言い聞かせて。
何を見ても、何を聞いても、胸を痛めるな、それは誰の役にも立たないと、よくよく言い聞かせたのだった。
なぜならば、胸の痛みは、私を大人しくさせるからで、大人しい私は役に立たない。
人でなしでいればいい、と、私は思った。
オリンピックは、踏み絵だと思うから、事情はいろいろおありでしょうが、やめといた方がいいと思うけど。