憐れみと神のみこころ
身内のことを、これだけ書いていいものか悩むところではあるが、まあ、書こう。
母にはお口にチャックと言われたが、母は書くなとは言わなかったから。
年末てんやわんやは、病気面では結末が見えてきた。
しかし、ここから先も引きずられるだろうものすごい傷を、田舎の身内の人々に残した。
一度口から出た言葉は消えるのに時間がかかる。
また、私の田舎には、許すという文化がない。
大阪とは真反対の文化を、その土地と私の田舎の身内は持つ。
精神的に窮地(大阪基準で考えるなら、現実はちっとも窮地でもなんでもなく、むしろラッキーなように私や母には思えたが、私の田舎の身内の人々にとっては窮地)に陥った人々は、助け合うのではなく、自己保身に走り、ここまで潜在できていた人間関係とその人自身の問題を顕在化させ、事態は、精神的にはおそらくここからが大変だろう。
負の連鎖ねえ、と、母はため息をつきながら言った。
私は、「離れていて手伝えることは今はもうない。
私たちは、今ここにある平和を大事にしよう、お母さん。
出番が来るまで離れていよう」と、母に言った。
母が巻き込まれないように、その負の連鎖から母を引き離すことしか、私にはできなかった。
これは根が深いわねえ、と、母はため息をつき、私は、平和を祈ると言った。
母は、「神さまも仏さまも、お母さんの祈りは全く聞いてはくれなかったから、お母さんは、神さまには祈らないのよ」と言い、私は、「神さまは私のお願いを必ず聞いてくれるから、私は祈る」と言った。
そして、2人はケタケタ笑った。
私の残る仕事は、病院に入院している叔父が退院するときに、聞いたら叔父はずっと病院に入院していたくなるであろう、いかに叔母が大変だったかという事実を、容赦なく突きつけることのみである。
差別の芽は積めたが、人の諍いは、どうしようもない。
平和より大事なものがある人たちに、無理やり平和は押し付けられない。
価値観は多様なのである。
当然、自分には受け入れ難いものも、そこには存在する。
だから私はただ、私が大事だと思うものを守るだけだ。
この場合、私が守れるものは、近い家族の平和だけで、他は祈るよりあるまい。
皆、やりたいようにやってるだけだ。
だから神さまアウトソーシング。
胸は痛むが、私が胸を痛めたところで解決はせず、胸を痛める人が増えるだけなので、私は目を閉じることにした。
何か新しいことが生まれるときには、破壊はつきものなのかもしれないなあなどと、薄ぼんやり思いながら。
そしてそんな中、私は、また一つ理解した。
聖書の中には、憐れみという単語がしょっちゅう登場する。
私はこの単語がいまいちピンと来なかった。
同情?
ならば、そう訳すだろう。
私は、同情は嫌いだ。
何の救いにもならん。
しかしながら、神は憐れみを感じて、契約を変えて、人を救うことにしたのだという。
ん〜?
年末からの日々の中で、最近、私は、ふと、あ!これが憐れみちゃうか?!という体感が私の中に生まれたのを感じた。
身内の人々は、いったいどこまで自分勝手に物を考えればそうなるのだという行動や発言をしていたが、私は、怒りを一切感じなかった。
ただなんというか、どうにもできないんだなと思った。
そうしたら、胸がポカポカしながら、かわいそうにと思った。
同情は胸が痛む。
憐れみは、胸は痛まない。ポカポカしてる。
きっとそうだ!と私は思った。
これだ、きっとこの感覚を憐れみというんだと思った。
私は、ひたすら優しく、全員に接した。
私の文句は神さまが引き受けた。
当たり前だ。
私は休みをくれと祈っていたのに、休みをくれないのだから、文句ぐらいは聞いてくれ。
私の信仰は、自慢じゃないが薄いのだ。
何をくれてもありがとうとは、ならん。
私は、欲しいものが欲しい。
私は休みが欲しかった。
しかしながら、休みだったから、これだけ身内に時間を割け、母を引き離せたとも言える。
そりゃそうだ、田舎の親戚と母を天秤にかけたら、登場人物の中で、一番守りたいのは母だ。
負の連鎖から母を守れなかったなら、私で守りうる、私の身近な平和が崩れていくからだ。
神さまは、私に大事なものは守らせ、そして、この機会にちゃっかり、感謝、賛美、憐れみ、という、聖書の中に頻繁に登場する単語の体験ワークをさせた。
ジーザスの体験ワークは無料であるが、本人が受けたい時に受けれるというもんでもないらしい。
私はそんなワークはいらんので、休みたかった!
しかしまあ、この三つは、ここから役には立つ感覚だろう。
何を見ても聞いても、憐れみというキットがあれば腹はたたずに、美容に良さそうだからまあいいか、と、私は思った。
そうしたら、話の最後に、全然別の場所から、私は化粧品をたくさんもらった。
美容か!
美容の話か?!と、私は思った。
神さまは、私に綺麗でいて欲しいのだ、と、私は思った。
よし、今年は美容に励もう、それが神さまのみこころであるなと、私は思った。