日本語と英語
英語のドラマを日本語で観ている時、字幕とセリフに違和感があることがある。
俳優は、そうは言ってないんじゃないか?と思うこと。
字幕は文字数に制限があるし、訳も、日本人だったらこのシチュエーションではそういうかもねというセリフで、流れに違和感は生まれないが、でも、俳優はそうは言ってないと感じること。
つまり意訳だ。
例えば、
「私はそれは嫌だわ」というセリフが「あなたがそうしたいなら、それでいいわよ」と訳されてたりする。
俳優の顔は、私は嫌だと言ってるから、話はそれでスムーズに進む。
場面にも違和感は生まれない。
けれど、それは俳優は言ってない。
嫌だ、と言ってる。
日本語はそういうもんで、英語をメインで話す人の日本語は、だからきつく聞こえることがある。
はっきりしすぎると、日本語はきつく聞こえる。
日本語は、聞き手中心の言語で、相手をの気持ちを考えて話すようにプログラムされてる。
英語は、話し手中心の言語だ。
だから、私、という主語を抜いては英語は成立しない。
日本語は成立する。
聞き手には、私が話しているのは見えているから、見えているものは省略できる。
例のセリフもそれで、そう訳されているのだろう。
(私は嫌だけど)あなたがそうしたいなら、それでいいわよと。
英語の場合、私は嫌だけど(あなたがそうしたいなら、それでいいわよ)となるのだろう。
日本語は、エスパー向けの言語だな、と、私はあらためて思った。
日本人が共感、同調能力が高いのは、きっと言語も理由だろう。
ちなみに、↑の一文を読んで、私がそう思っているとわかったら、それはその人が日本語ユーザーだからだ。
私がそう思っている、とは、私は書いていないが、日本語なら、そう書かなくても理解してもらえる。
(今は、できるだけ書くようにしている。ブログを読んでいるのが、日本語ユーザーだけではないと、私は知っているから。)
人の価値観がものすごく多様であることを、私は、去年一年で、あらためて感じた。
髪はダーク、目はダークの似たり寄ったりに見える日本人でさえ。
まあもう、髪はダーク、目はダークの日本人ばかりでもない。
生まれながらに髪は金髪、目はブルーの日本人だっている。
親のどちらかがそうであれば、そうなる確率はある。
あなたがどう思っているかを推測しながら話すのは、だんだん難しくなってきている感じがする。
実際、私がどう思っているかを話す方が、揉め事は少ない。
私の周りは、揉め事が非常に少ないが、尋常でなく少なくなったのは、私が相手のことを考えて話すのをやめ、自分はこう思うとはっきりさせはじめてからだ。
相手がこう思っていると推測で話す場合でも、私がそう推測してるとはっきりさせる。
これは、クリーンランゲージを学んだ後だ。
思いやらないことが相手に自由を与え思いやることになることも多いと、私は学んだ。
理解しないことが思いやりになることも。
ケースバイケースで。
使い分けが必要だな、と、感じている。