生まれた時から持っている言語化されていない願い

 

今朝の話題は、また、他人には意味のわからない話となる可能性が高い。

私にはよくわかるので、記録しておく。



先週の土曜日の夜中、私は次のセッションまでにやってきたらいいという宿題を3つ出された。


1つ。

生まれた時から持っていた、まだ言語化されていない願い」を探究してくること。

質問は、「噴水(泉)は何が起きればいいのか?」


2つ。

2016年に私が作ったマップを探し出してくること。


3つ。

「泉のように湧き出る噴水」メタファー)を探究してくること。

質問は、「泉(噴水)について、他に何かあるか?」



私がクリーンの質問を使えるという前提で出された宿題だ。



私は1週間かけて、探究した。


具体的には、まず、パソコンのイラストアプリを開いてから、自分に質問した。

私が、もしも、私自身がクライアントなのであればそうさせただろうと思ったからだ。

この場合、私がファシリテーターで、同時に、私はクライアントだ。


私は、自分に質問した。


すると色が浮かんだ。


私は、しっくりくる色で画面を埋めた。


すると、浮かんだ形があったので、それを絵を描いた。


そうして、言葉がひとつ、やってきた。


葉っぱ。



探究は、常に言葉とは限らない。

右脳が絡んでいるならなおさらだ。


相手は言語化されていない願いだ。

どう考えても、右脳が絡んでいると思われた。


言語化されていないものを言語化する手伝いには、言語でないものが役に立つことが多々ある。


行動だ。


言葉は、頭の中だけでは生み出されない。

行動が、言葉を生み出すことは多々ある。



私は1週間、絵を眺め続けた。


そして、2016年のマップを眺め続けた。


3つめの宿題については、朝のお祈りの時間に感じ続けた。



そして今朝、私は気がついた。


私の体は、もう、すでに、この言語化されていない願いのかけらを行動してる。


これは誰にでもある。

行動は、言語化されていない願いを体現していること。

例えば、喉が渇いたと思わなくても、喉が渇いた人は水を求めて水を飲む。

よくあることだ。



私が願いを言語化するのは、それが、言語化する必要がある時点に辿りついた時だ。

つまり、なんらかの選択が必要になった時だ。


私は、葉っぱが何を意味するのか、おぼろげに理解した。

去年、自分が突然始めたことがいくつかある。

なぜかというと、私は、前のセッションで、COVID-19と、願いがタイミングを待っていたことを言ったからだ。



葉っぱ。


あれ?

もしかして?

あら?



それから何年か前にもらった賞状とボールペンのことを思い出した。


私は賞金が欲しくて、その賞に応募した。

そして賞状とボールペンをもらった。

賞金はもらえなかった。



あら?


それから私は、私に「し」を教えたハナフジ先生のことを思い出した。


葉っぱ。


葉っぱ。


葉っぱ。



さて、今日の夜、何が飛び出すだろう?


ただ、私はわかった。


私がブログを書き続けてきたのは、そこに、深い願いが絡むからだ。


深い願いの正体は、さていかに。