てんやわんやの続き

 

一度SNSに書いて、すぐ消した話。

12/31の続き。

私の周りに生まれかけた差別は、たった数日で解決した。


当然だ。

私の天国に、そんなものは不要である。

自分の天国に必要なものや要素を知ることは重要だが、不要なものや要素を知ることもまた、同じように重要だ。

そして、不要なものを知ることは、必要なものを知ることより、時に難しい。


いい悪いじゃない。

好き嫌いは関係する。

主には、必要不要の話だ。


これは要らないと願うことは、これが欲しいと願うことと同じだ。

ただし、願い方にはコツがある。


要らないと願うのではなく、それがなければ存在すると思われるもの、欲しいものの方を願いとして成立させることだ。

特に自分ではどうにもできない(と思われたりする)ことは。


これは、願いの構造だ。

今の時代は、願いの構造を研究していたりする変わった人(私じゃない。私が研究してきてるのは、願いの叶い方だ)がいる。


古くは、神さまも教えてくれているが、神さまは願いをただ、みこころに叶うか叶わないかという分類しかしない。

なんでも可能な存在はまた気まぐれだ。


さて、いかように願うかは、引き続き仕事でやるとして。


ものがたりを続けよう。


12/312020年の最後に私がしたことは、祖母や叔母に差別的なことを始めた親戚に、抗原検査キットを送ったことだった。

隙間が空いたので、隙間を埋めるために、教会のクリスマス会用に買ってあったが、クリスマス会がなかったので余っていたラベルがかわいいインスタントスープの素をつめた。


箱詰めが終わった時、私は、誰の名前で送ればいいかな?と一瞬、考えた。

湯沸かし器のように怒っていた母は、自分の名前で出せと言った。


母は気が強い。

そして罰しようとする。

そんなことをすりゃ、その親戚とバトルがはじまり話が大きくなるのは、火を見るよりも明らかだったから、これは却下。

こんな話は、さっさと小さなうちに終わらせるに限る。

引きずることは、誰の幸せでもない。


生まれた芽が大きくなりそうな気配を感じ、それが自分が自分の天国に必要ないものならば、小さなうちに、潰せばいいのだ。

自分の天国について、正しいか正しくないかなど、論じる時間がもったいない。

それは作るもので、棚ぼたに与えられるものではない。


それに、この場合、差別の根っこには恐怖があると推測された。

癒すべきであって、諭してもどうにもならない。

間違えた知識は修正する必要があるが、理性的に話を聞き考えられる状態の人は、そもそも流行病で人を差別しようなどとはしない。


ともかく、誰がいいかな?と考えた瞬間、私は、あ!送り主はおばあちゃんがいい、おばあちゃんの名前にしよう!と思った。

正月早々、送り主不明の荷物が届いたら、楽しいに違いない。


それで、認知症の祖母の名前で、荷物を送った。



1/1、優しい声の電話がかかってきた。

差別的な怒りの親戚の奥さんだった。

すごく優しい人。

私の電話番号を別の親戚から聞いたのだろう。


聞けば、それ以前に別の親戚が勝手に私の名前を出して、私が心配していると伝えたのだという。

それで中に入っていたスープを見て、私かな?と思ったらしい。


私は心配などしておらず、ただ、ああブログネタができたと思っていただけだ。

差別については、書いたように、戦略ミス、愚の骨頂と切り捨てていただけだ。

あとは、休ませろやと思っただけ。



親戚は「Yちゃんが送ってくれたの?」と尋ねた。

私は「いえ、おばあちゃんが」と笑って言った。


親戚は「それなら、おばあちゃんのところに連絡しよう」と言ったので、私は慌てて、「いや、それはまずい」と言った。


祖母と祖母と住む叔母は、この話を知らない。


私は、「おばあちゃんがテレパシーを送ったのは、うちのお母さんじゃないかなと思います。多分」と言った。


優しい親戚は、ああ、そう、じゃあYちゃんのお母さんのところに連絡してみようねと言った。


私はまた慌てて「連絡は誰がします?」と聞いた。

もしも、差別的なことをはじめた親戚本人が連絡したら、母とバトルが始まる。


「うちのお母さんは、一本気なところがあるから、今は、おじさんとは話さない方がいいと思う」と私は笑いながら言った。


母は、正しくない(と彼女が思う)ことには厳しい。

私は正しいか正しくないかは、どうでもいい。

私に休みをくれの一心である。

いつものように、私は自己中の塊だ。


平和なら休めるのだ。


何十年ぶりかに話した昔と変わらず優しい人は、「私が連絡します」と笑って言った。

「そうしてください」と私は言った。



そしてしばらく後、母から連絡があった。

「飛沫感染について語っておいたわ!」と、母は笑っていた。


母の気も済んだようだった。


そして私と母は笑いながら話をした。

その中で、私は、また一つ、ブログネタを拾った。



私の天国に生まれた小さな芽は、温かい爆笑と共に摘みとられた。


ついでに、どうしていいかわからなくなっていた田舎の何人かいる親戚から、たくさん感謝された。


私は、感謝されてればいいのかと理解した。

感謝は人の心を温める。


ああ、そうだな。

そっか!と、私は気づいた。


人から感謝されることをめんどくさがらずに、人からの感謝はちゃんと聞こうと私は思った。


私は心配しても解決せんから、だいたいのことはあまり心配しないので、たとえ、休ませろやという自分の思いが、本当にほとんどだとしても、それは言わない方がいいし(言ってないけど)、相手が感謝するのはいいことだ。


だって、相手の心がポカポカするからね。


なるほど〜。

そっか。


なるほどね。