生まれた時から持っている願いや使命や魂の青写真は、ひとつや一枚とは限らないと理解した話
自分の思考の癖。
何かを考える時、何かを望む時の自分の思考の癖。
今までのパターン。
それに私は気がついた。
私は、まずその願いや思考を現実化していく時に自分を助けるもの(リソース)を作ろうとする。
願いを認知しないまま。
自分がそのリソースを作ろうとする理由を私は知らないことが多い。
知らないまま、ただやりたいという理由で、リソース作りをする。
それがリソースだということも知らないまま。
ただ好きだからとか、面白いとか、興味があるとか、そんな感じの感覚が理由で、その奥にあることを探さない。
そして、リソースがある程度揃った頃に、私は願いを認知する。
リソースがすでにあるので、私の願いは割と早く叶いやすいように「見える。」
リソースを揃えていく過程で、課題や問題も解決しているので、願いを認知した時点では、その願いを現実化するための障害や問題は、すでに無い。
スムーズに叶うように「見える。」
そして、その頃までには、私は無意識には願いを口にしている。
軽く。
何の強い感情もないまま。
ただ、口がしゃべっている。
そして、体は願いのかけらをすでに勝手に行っていたりする。
ただ、自分自身には、どれが根っこの願いそのもので、どれが願いを叶えるためのリソースを作るための行動なのかの見分けがついていない。
全部、ただ好きだからとか、ただやりたいとか、ただ面白いとか、ただ興味があるとかでやるので、見分けはつかない。
それが私のパターン。
長い長い間、私は願いのかけらを、毎日毎日繰り返してきて、それは大方40年になり、そして、今が来たということを理解した。
私は「生まれた時から持っている願い」に辿り着きつつある。
その願いに目新しさは感じなかっただ、自分はその願いを生まれた時から持っていたのかというのは、少々驚きではあった。
願いはひとつではなく、5つあった。
人が生まれた時に抱いている願いって、なんとなくひとつのイメージがあるけれど、そうではないのだなあと私は知った。
(私は願いを、葉っぱと表現したが、葉っぱについて質問されると、葉っぱは5枚に分裂したのだ。)
もしも、生まれた時から持っている願いはひとつとは限らないと知っていたら、楽に生きられる人は増えそうだなと、私は思った。
それはおそらく、魂の青写真とか、使命とか、生きる意味とかいう名前で呼ばれているものと同じようなことだろう。
ともかく、私はその願いのために、40年かけて準備してきたのだと理解した。
40年も準備が必要な場合があるということもまた驚きだった。
そして、なぜ、自分は25才では死ななかったのかも理解した。
46才までいかなければ、願いを始められないのだから、そりゃそこまで生きていることは、私にとって何より大事だっただろう。
生きてこそ、願いは叶う。
願いを叶えるのに最重要なリソースは、命だ。
気づいていない人は多いが、命は、生きる誰もが持つ、願いを叶えるためのリソースとなりうる。
生きる誰もが持っているからだ。
ただし、この場合のリソースには、もう一つ条件がある。
その持っているものを、その人が好きであるか、または、価値を認めているということだ。
「自分の人生や自分自身を愛しなさい。」
もし愛せなくても、価値を認めなさい。
これは、よく言われることだが、それは本当にそうなのだとわかった。
願いを叶えていくために、最強のリソースは、その人の命なのだと。
.........
話は私に戻る。
生まれた時から持っている願いに辿り着きついた私に、今、ひとつ問題が浮上した。
願いはおそらく、なぜ、私が黄色いバスを望むかにも繋がっている。
願いの集大成が黄色いバスなのだろう。
というわけで、今、その問題を、手伝ってもらいながら、片付けてる最中。
真夜中ワークショップで。
もちろん、メタファーの状態で。
メタファーとはなんとも便利な道具だ。
問題を片付けながら、リソースを作ることが簡単にできる。
具体的には私は、私の背中には羽根が生えているのに気がついたのだが、なんと羽根が片方しかなかったのだ。
「あれ、羽根が一枚しかない!」と、私は言って、大笑いになった。
背中の羽根が一枚しかなければ、空は飛べない。
そして、その羽根を作るために必要なものと格闘することになった。
今ここ。
ちなみに、私がこれを書いているのもまた、私が生まれた時から持っている願いのかけらが、ここにあるからだ。
毎日毎日、子供の頃から書き続けた日記について、書くのをやめようと思ったことは一度もない。
一年くらいだけ、書けなかった時期があるが、それ以外は、毎日毎日、書き続けてきた。
それが、自分の人生そのものなのだと、私はようやく気がついた。
5枚の葉っぱのうちの1枚は、私の日記だと、私は知った。
そりゃ、やめようとは思わないはずだ。
とりあえず、今日はここまで。