願いは平等

 私は、自分が、願い、望み、希望、夢、そういう類にこだわり続けてきた理由に気づいた。


理由は、それらは平等に誰もが持てるからだと。


癒しは平等にはもたらされない。

神さまという全知全能な存在すら、人間に平等に癒しを与えていないことは、現実を知る人には理解できる。

許さなければ許さないと、ジーザスは教えている。

癒しは、無条件じゃない。

癒しと許しは似たような話だ。


しかし、願いは、無条件に持つことができる。

誰でも。

ジーザスもそう言っている。

あなたが望むことはなんでも、与えてあげると約束すると。


願いは、小さな子供も持つことができる。

癒しはそうではない。

自分を守り癒す方法を知らない小さな子供は簡単に傷つき、癒されないままの傷を持つ人はとても多い。

自分で癒すことができる類の傷と、そうではない類の傷があり、癒しには時に長い時間がかかる。

それは、現実を知る人ならば誰でもわかる。


だから、実に多くの人が、まずは個人の癒しからと、気長にそれに取り組んでいる。

やがて世界を癒すために。

世界を癒すには、数えきれない個人が癒される必要があるからだ。


希望と癒しはセットだ。

ただし、より平等なのは希望だと私は思った。


平等であることは、私の人生において、非常に重要な意味を持つ。


だから、自分は、セッションでも、癒しに重点を置くのではなく、希望を生み出すことにより重点を置いてきたのだと、私は理解した。

希望を叶えていく中で、現実の中で、その人が癒されるように。



そして、私は思った。


願いは、人生の中における最強のリソース(その人の人生の役に立つもの)だと。


願いは、存在するだけで、力を与える。


癒したいと願うことから、癒しも始まる。

過去を振り切り、前に進む力を与える。


そして、そう願うことは、命さえあれば誰にもできる。

一瞬で。


その瞬間、願いが生まれる。


願いは、持つだけで意味がある。

それが叶うか叶わないかは二の次だ。


願いは、その人が好む未来だ。

そして、願いを抱く時、願いはその人が持つものだから、つまり、願いは、リソースの条件を満たす。


アウトカムのビジョンを発展させることそのものが、リソースの強化だったのだと、私は気づいた。


私が数年学び続けてきたものは何だったのかを、私は理解した。



まあ、言語化するのに時間がかかることかかること。

右脳(体)は言葉を喋らんからな、、、と、私は思った。