話はあっちこっち
話はあっちこっちにいく。
浮かんだまま、整理せず。
なんでこんなSFちっくな理解になることが、私に起きているのかという理由は、私なりにある。
SFに仕立てているともいえる。笑
私の脳みその理解のキャパを遥かに超える仕組み、それは誰にでも意識の力で起きることだと思うけれど、まだあんまり聞かない話。
理由は、ただ、私は、人に分けるからだと思う。
つまり、私は、無償で自分のブログに、なんでもかんでも書いてしまうからだと思う。
私に誰かに伝える役割があるとするならば、それは、知識にふんだんにお金を割ける層の人達に伝える役割ではない。
私が今、書いていることを、やっぱりそうだ!と気が付いたきっかけは、世界的にベストセラーになった本の中にある。
絞りきれなかったパラレルワールドの数が10だとはっきりしたのは、その本のおかげだ。
私は本は読んでいないが、youtubeで、その本を解説している動画を見た。
お笑い芸人さんがやってるチャンネルで。
このSFのおちは、その本のタイトルと同じだ。
やりたいことをやりなさい。
パラレルワールドと次元の意識上での統合は、つまりは、そういうことだ。
先に書いとくと、意識上での統合は、自らの行動なくしては起きない。
さて。
私には、理屈より先に体験が起きていることが多い。
あとから、あ!これか!と理屈は理解すていることが多い。
私の体は、頭より賢い。
気づいてから、知識を頭にいれてから動いているのではなく、動いてから気づくことが多い。
ほとんどの場合、なんで?と思いながらやっている。
何かをやりたいはっきりした理由を、やる時点で、自分自身が知っていることは稀だ。
人に説明する時に必要となるが、最近は、あんまり理由も聞かれなくなってきたから、ブログを書く以外には、まあ、あんまり必要ない。
理由や動機は過去にある。
過去は、未来と直結しない。
後から書くが、いくらでもそれは変わるから。
今、やりたい、という思いに、理由は必要ない。
それで、ただ、私は、書くので、私にはそれが起きているのだと、最近は、思っている。
あまりにも人選がしょぼいと、私は思ってきた。
単にGive and takeの法則が、人生上に働いているのだろう。
与えることが、与えた人に起こす作用はものすごいものがある。
ただし、身を削らずに、だ。
時には、身を削る方が簡単なことはある。
自分を犠牲にする方が簡単な場合がある。
けれど、それでは、幸せの総量が増えない。
私は、増やすのが好きなのだ。
身を削るより、余らせる方が努力が必要なこともある。
それに、己の欲次第では、永遠に余らない。
ひとりじめしたくても、永遠に余らない。
その場合、どんなに増えても、余らないから、身を削ることになる。
奪われる感覚から、自由になれない。
これは、お金や幸せといったわかりやすいことだけに起きることではなく、気づきや知識といったような、奥に潜むことにも当てはまる。
それから、話として、普通の育ち方をした、普通にしょぼい人が成し遂げた方が、私の死後、本が売れる。
ドラマチックだ。
普通の女の子だった人が、四十も半ばを過ぎてから、クリスチャンになり、そして、富裕層になると言い出し、最後は、、、まだ決まってないが、アフリカの青い空の下の場面が入っていることを望む。
そうすれば、少年少女世界文学全集に掲載できそうなストーリーである。
黄色いバスの運営資金に著作権料がいる、著作権なら死後も残せると、私はどこかに書いたが、私の人生そのものを、私は売るつもりなのだろうと思う。
サン・テグジュペリの星の王子さまは、作者が、飛行機で遭難した時に生まれた話だ。
おそらく、作者は、星の王子さまに会ったのだと、私は思っている。
ハリー・ポッターを、クローゼットから現れた小人が語ったように。
私の人生には、星の王子さまも小人も現れてはいないが、SFワールドが現れた。
そして、この一般的ではないが、ありふれた庶民の人生が、SFワールドだと、誰のものもそうなのだと、私が待ち望んだネタがやってきたのだ。
話はあちこち飛ぶが、さっき気がついたが、今日は満月だ。
私は、満月の日から続きを書くと、ある物語の中で約束した。
私が書くものがたりは、自分の人生を使ったSFだ。
私のものがたりを、私は、ただ書けばいい。
全部ほんとでなくていい。
記憶はそもそもデタラメだ。
ただ、ブログを書けばいい。
死後のベストセラーのために。笑
ほんで、もう書いてたし!
ずうっとね。
何年書いてるということもない。
ずうっと、本の下書きを続けてきたのだ。
私は。
今も。
書いているのは、本の下書きだ。
なんちゅう、オチやというところ。