タイムラインからの解放
あなたは何が起きればいいのでしょう?
あなたは何が生まれればいいのでしょう?
あなたは何が始まればいいのでしょう?
私は、時に突飛な答えをもたらすこれらの質問が好きだ。
理由はいくつもあるが、この質問は、いきなり未来に焦点をあて、必ずしも過去を参照した思考をする必要がないというのも、理由のひとつだ。
過去と現状と、未来は必ずしもリンクしない。
リンクさせて考える癖はついているが、必ずしも、リンクしない。
やってきた積み重ねが今を作っていることは多いが、積み重ねなく、突然現れる今もある。
そして、積み重ねなく、突然現れる未来もある。
人生は、必ずしも、一本の時間の線上には存在しない。
タイムラインという概念は、人間誕生後、随分後に生まれた概念だ。
ありとあらゆる宗教における、名前はいろいろだが絶対的な存在は、人間を突然救う。
ほとんど気まぐれに。
タイムライン上に、それらの存在はない。
その絶対的な存在の概念の誕生は、タイムラインの概念より早く登場している。
古い時代を生きた人たちは、今を生きる人たちよりも、この絶対的な存在を思考に採用していた人が多い。
わからないことは、全部、その存在で解決できた時代だ。
時間や人生の概念は、今よりもシンプルだったに違いない。
現代においては、この絶対的な存在を採用しない思考の人も、多くいる。
それは、今が、人類史上、比較的恵まれた何十年かだったことを伝えているような感じがする。
タイムラインの概念は、積み重ねられる状態である時、威力を発揮するが、積み重ねを必ずしも必要としない状態、または、積み重ねられない時、または、積み重ねが邪魔になる時には、その威力は働かないか、もしくは、マイナスの働きをする。
完璧な概念はない。
今、多くの人に生まれているテーマは、タイムラインの概念からの解放ではないかと、時々感じる。
この多くの人の中には、私自身も含まれる。
過去から今までのつながりの中で物を考えるのではなく、今と未来のつながりの中で物を考える。
自分の中から湧き上がる(キリスト教的な表現だと、神から与えられる)直感に近い思いや感覚を頼りに。
過去を採用しないなら、未知は、普通の状態で、そこに恐怖や不安は生まれない。
知らないことは、当たり前のことになる。
過去という概念を採用するから、未来は未知になる。
社会全体が、タイムラインから自由になるのは、人数が多いため、なかなかに難しいかもしれないが、個人の人生レベルの思考なら可能だ。
人生は、いつでも今日からはじまると考えること。
タイムラインから解放されること。
あなたは、何が起きればいいのでしょう?
あなたは、何が生まれればいいのでしょう?
あなたは、何が始まればいいのでしょう?