私という〇〇、〇〇という私

〇〇という私。

私という〇〇。


〇〇=私でくくる時、私が前に来るか、〇〇が前にくるかで、アイデンティティは変わる。


〇〇は、なんでも同じ。

会社員、母、父、妻、夫、日本人、女性、男性、その他性別、誰かのファン、ピーマン嫌い、列に並ぶ人、なんでも、ともかく属性。



実際のところは、私という〇〇しかないけれど、〇〇という私は、思考の中には存在することが多い。


わかりやすいところで、例に母を使うなら。


世の母は、実に様々だ。

同じ母は二人といない。

また、一人の中でも、いつも同じ母ではない。


母本人が考える母と、子供から見えている母にもまた違いはある。


「母親ってそういうもんでしょ」というフレーズをたまに耳にするが、そりゃその人が、母親という言葉の意味に、そういうの内容をあてはめているだけで、実際、母親全員がそういうもんでもない。


母の前に、私、が存在するからだ。


自分を尊重するということは、私という〇〇で、物を考えることなんじゃないかなと思う。


枠にはめた考え方をしないというのも、私という〇〇で考えることじゃないかなと。


〇〇という私ではなく。


その〇〇に自分がつけた意味によっては、〇〇という私は、その人を枠の中に閉じ込める。

同時に、その人自身をその人の責任から引き離すこともあるかもしれない。

選択の幅も狭くなる。


多くの〇〇は、こうあるべきという何らかのルールやモラル的なイメージを伴うものが多いからだ。

真面目な人ほど、このイメージに自分を合わせていこうとする傾向はあるかもしれない。


しかし、そこに本当にあるのは、「私という〇〇のイメージに合わせていこうとする〇〇な私」だ。


まあ、私というわたし、もあるんだけど。


私、をどう理解しているかで、わたしは変わる。